ホットケーキ
第十章 『焦燥感』
38歳になった。
東京の端っこに梅林の美しい公園がある。休日に仕事用のカメラを持った湖山は下りの電車に乗っていた。仕事を始めたばかりの頃に一度行ったことがあった。機材を積んで車だったはずだ。息を飲むような梅林の風景。雲の中にいるみたいなそれは自分の生命が一度終わったのではないかと思うような景色だった。春は切ない。積み重ねてきた月日に別れを告げたり、新しいドアを開けて踏み出す人たちの中に自分だけが置き去りにされてしまうような焦燥感を感じた日々があった。春になりかけた頃、梅の花が咲き始めると、時々その頃の自分を思い出す。

カメラマンになりたいと思った高校時代から専門学校、就職、何の迷いもなく自分の道だ思う方へ歩いてきた。専門学校への進学は、大学へ行けという両親の反対にもあったけれど、忍耐強く話し合いを重ねて理解してもらった。遊び半分の級友達の中で行き場のない苛立ちを覚えることがあったり、そんな学生達を相手にする教授陣の手ごたえのなさに若者らしい反抗心を抱いたりすることもあったけれど、いつでも自分が自分らしくいられる道を選んでいる自信に満ちていた。そして、就職してから何年も続いたアシスタント時代、この時期が自分にとって必要なのだと頭では分っていても、カメラマンになれる保証があるわけではない。生まれて初めて、これでよかったのかと自分の道を振り返った。あの、焦燥感。自分のやるべきこと、それはこれで良いのか、と何度も何度も自分に問いかけた。
春になると、世の中全体が新しい場所へ踏み出していく。同級生達の近況を知らせる葉書や電話、取引先で見る新入社員達。同じように春を重ねていくのに、自分だけ進歩がない、それをまざまざと見るような気がした、そんな時期。


文庫本を一冊読み終わる頃、車窓は都心から遠く離れた緑豊かな町を見せていた。大きな河を渡るとき電車が大きな音を立てて彼に伝える。時は瞬く間に過ぎていくのだということを。

初めて降り立つ駅はいつも不思議なノスタルジーを感じる。来た事がないのに、いつか夢で見たような、遠い昔に来たような、そんな気持ちになる。先細りになるホームと線路、古い屋根の駅舎の出口、よくある景色だと思いながらも折角だからカメラに収めた。ホームへの階段を彼女が降りてくる、なんて、あるわけないことを考える。

「こいつと一生続けてみてもいいな、と思う相手がいたら結婚したらいいと思う」
「夢を叶えたら、次の憧れっていうのとも違う」

湖山にしては続いた二年という恋愛期間で「結婚」という二文字を考えなかった訳ではなかった。相手は若かったけれど自分の年齢を考えたらその二文字がちらつかない方が不自然だと思う。それでも「この子と」と思うところまで至らなかったのは、二年間の間に少しずつ薄らいでいった恋心のせいだろうか。そして自分は新しい憧れを見つけてしまったのだろうか。彼女を屋上で見つけたあの日から、もう、一年が経とうとしていた。


満開の梅の林。ちょうど青空に浮かぶ大きな雲が、ひとつ、ふたつと浮かぶように、あちらに群れて咲き、こちらに群れて咲いていた。見あげた梅の花の一輪、あるいは、同じように見えて一つ一つ違う梅の花の色、梅林の遠景。春の訪れを確かめている人たちの穏やかな笑顔。今ここに天女のような誰かが降りてきて、ここは天国です、と言われてもきっと驚かない。


シャッターを切る度に、彼の脳内でスライドが回転するみたいに彼女の静止画が次々に浮かんだ。彼の記憶の中に閉じ込められた彼女はどの画も、自分のほうを向いていなかった。春先の陽光の中に頬杖をついた彼女は遠く左方向を見つめている。それでなければいつも右側の耳を見せて伏目がちに集中しているか、髪を低めに結んだ後姿、あるいは、髪をアップスタイルにして首筋を見せた後姿。そんな何枚もの脳内スライドの中にたった一枚だけ彼を向いた画があって、それが湖山が夢に見た彼女なのだった。

いつか夢に見た温かな湯気がのぼるホットケーキとこちらを振り向いて微笑んだ顔。触れたこともない彼女の肩、腕、背中。抱きしめた瞬間にあの微笑はどんな風に変化するんだろう、彼女は、僕の腕の中で。



老夫婦が梅の花を見あげながら歩いてくる。足元を気遣いながらお互いにお互いを労わるように歩く姿はきっと誰が見ても微笑ましく思うのだろう。いつかはあんなふうに、と誰もが思う姿。彼女も誰かとあんな風に年老いて行くのだろうか。自分はいつか誰かとあんな風に年老いていく事があるだろうか。彼女ではない、誰かと?

冬を越えて春を迎える土を踏みしめて歩く。この先に何があるのか分らないけれど、今湖山が抱えているのはもう焦燥感ではない。いや、焦燥感だろうか?彼女を想うと胸が締め付けられるほど苦しいのに、どこにも行き場がない自分の想いをどう始末したら良いのか彼にはわからなかった。
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