花散里でもう一度
阿久

あの冬の日は、例え時に埋れ過去になろうとも、逸何時も切なさと共に蘇る。

そして私はいつでも、胸の内で呼び続けている。

愛しい夫の名を。

忘れない様に、強く強く。

膨大な時の積み重ねの中に、あの人が消えてしまわない様に。





伊吹が生まれてからは、毎日が短く感じる。
さらさらと指の間から零れ落ちる水の様に、時の流れは早く、無情だ。

私は身体が動かせる様になると、夕暮れ刻、逢魔が刻とも呼ばれる刻限に、峠に通うのが日課になっていた。


夕方になると、決まってぐずり出す伊吹を連れ出してあやすのに丁度いいから。

訝しむ婆様や爺様に、そう言い訳をしながらも、雨や雪の降る日以外は、せっせと日参したものだ。

勿論待人の姿を探しての事。

いつか、あの峠の向こうから、ひょっこり姿を表すのではと、つい考えてしまう。

「伊吹、父ちゃんは…いつ迎えに来てくれるんかなぁ…。私は待ちくたびれて、シワシワのおばあになっちまうぞ。そしたら茨木は私に気がつかぬかもしれぬ。」

夕焼け空に飛んでいる鴉を指差し、口を尖らせアウアウと喃語を話す伊吹は、大分しっかりして来た。

丸々太った手足をばたつかせ、空へと手を伸ばす伊吹。

「あれは鴉。空を飛ぶ鳥だ、掴めぬよ。」

天を仰ぐ赤子の眼差しは真っ直ぐで、穢れを知らぬ。

「…そうだな、私にも羽があればよかった…のになぁ…。」





伊吹を抱いて家に戻ると、家には明かりが灯り、夕餉の仕度を済ませた婆様が待つ筈だった。

戸口の前には黒っぽい染みがついていて、庭先から家の中まで点々と続いている。

嫌な予感がする。

それに、嗅ぎ慣れたこの臭い。

家の木戸を叩き声を掛ける。

「爺様、婆様今帰った。」

暫くの沈黙、ゆっくりと木戸が開いた。

「おお、伽耶か。はよう中に入れ。」

怯えたような爺様の目。
私の背後を気にする様から、外との厄介事かと推察する。

つい先日まで雪が降る日が有ったのだ。炭焼きの為に山中に有るこの家は、春迄山に閉じ込められる。

外からの招かれざる客が有ったのだろう。

「爺様、何が有ったのだ。」

家の中に入れば、やはり見知らぬ男が土間にうずくまっていた。
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