花散里でもう一度
国司
「ほら、感動の再会ってやつだな蝮、お前の御主人様がお待ちだ。」

人の波を割進みながら阿久を突き出す蛇。揶揄するかの様なその口調は、人の神経を逆撫でするいやらしさがある。
背中を押され地べたに倒れこんだ阿久、小突かれただけなのにもう踏みとどまる力さえ無い。やはりもう体は限界なのだ。気力だけで動いている…

「阿久は生かして置くのだろう!このままでは死んでしまうぞ!」

肩越しに振り返る蛇は視線で笑って見せる…それは阿久の口を割らせる自信があるということか?
倒れこんだ阿久を覗き込みながら、殊更辺りに聞こえる様に声を張り上げる。

「毎晩可愛がってもらった旦那様だ、忘れたなんて恩知らずな事は言いやしないよな?善がり鳴かされたんだろう?極楽を見させてもらってたんだろ?そんないい思いさせてもらって、なあんにも言わずにトンズラするなんて、なんて薄情な奴だ。だが今、その御恩返しが出来るってんだ。よかったな、誠心誠意お役に立ちやがれ。」

何が良かったなだ!冗談ではない!
恥辱に塗れたその物言いに怒りが湧く。仮にも村中の人間が集まっているこんな所で、過去のあれこれを暴露しなくても!と憤るのを抑えられないが、蛇の狙いはそれなのだ。
先ほどまでの昂りは消え去り、村人たちの視線は幾分冷えた物になりつつある。
折角爺様と村長が奔走したにも関わらず、この状況の不利を覆すまででは無いにしろ周りの人間の疑念を呼ぶ情報を与え、感情に揺さぶりを掛ける。嫌らしい遣り方だ。

蛇の言葉に牛車の御簾が本の少し開き、烏帽子が覗く。続いて顔も体も緩んだとしか言いようのない男が顔を出した。
ダルダルとした贅肉に縁取られた輪郭から、薄らとちょび髭が生えているのが変に情けなく見える…本人はそのヒゲを何度も手で捻ったり伸ばしたりと落ち着きがない。

「捨丸か?まこと捨丸なのか?」

その声に顔を上げる阿久、後ろ姿からは彼の表情を伺うことは出来ないが、決してその再開を喜んでいるとは思えなかった。
蛇の声が辺りに響く。

「お殿様、お約束の品です。少々汚れてはいますが、なに蝮のことですから心配いりませんよ。これくらいどうってこともありません。ただ…もう一つの依頼された物はまだ、手に入ってはいません。なかなかこいつも強情で…」

「わしの捨丸をこんなにばっちくしおって。まあいい、捨丸がわしの元に戻るのなら不問にしてやろう。」

蛇と殿様と呼ばれた男の会話は、胸糞が悪いものだった。
阿久を人とも思っていない、物の様に扱うその姿勢は良くも悪くも貴族階級の者によくある傲慢さだ。
政に携わる地位に就き、国を治める側の立場に立ったものならば経験する…統治する側とされる側の齟齬。だが政策を施行するためには人の情は邪魔になることもあるだろう。大極に立ち物事を見る者は理解され難い。最早違う次元から俯瞰する視点なのだから、見ているものが違うのだ。それ故傲慢にならざるを得ない、そういうことは侭有るし、それが傲慢と映るのは致し方ない。民草の小さな声を一つ一つ聞いていたら身動き出来やしないのだ、もっとも切り捨てられる者達からすれば、傲慢それ以外の何物でもないのだが。

だが目の前の矮小な男からは、そう言ったものは感じられない。
人の上に立つ者が傲慢さと共に併せ持つべき謙虚さなど何処へやらだ。
見ているだけで虫酸が走る。
私利私欲に塗れたただの豚。
腹が立つ、腹が立つ、腹が立つ!
いっぺん死んで来い!

「阿久を放せ。阿久はお前の物ではないぞ!それにいくら貴族と言えど、余りにやりたい放題、中央にはどのように報告しているのか…」

ぎょっとした顔の阿久がこちらを振り返る。慌てて私の言葉を遮ろうと被せて声を荒げる。

「お前は黙ってろ!これは…おれの問題だ。おれが片を付ける話だ。」

「何を言っている、そんななりで何ができるって言うんだ!」

「ちょっっ!なんじゃその女は!いや、そのデカイ腹…もしや」

語尾の震えに気がついて、蛇のべたりとした笑が増す。

「蝮の嫁だそうですよ。あの様子じゃもう直ぐ生まれるんじゃないですか。」

「〜〜っつぬあああああっ!なんじゃそりゃー!」

牛車から転がり落ちた殿様、衝撃を受けいているが当然阿久には男色の気はない。ええ、断じてない。
身を持って知っている。
豚(殿様)と阿久に纏わる過去の経緯は知らぬが、阿久は間違いなく納得もしてなかっただろうし、お前を受け入れたりはしていなかったに違いない。
なので、あの豚の一方通行なおもいに阿久が答える義理はない。
スパッと切ってやって問題ない!

「阿久はもうお前のところには戻りはしないぞ。さっさと諦めて帰るがいい。」

「身の程知らずな女だの。わしは女が大っ嫌いじゃ!媚びて泣いて我儘放題、最悪じゃ!反吐が出るわ!そのような口の聞き方を儂にしてただで済むと思うな!」

鬼の形相で私を睨みつける豚。
肉に埋れたような小さな三白眼が細められ糸の様になる。これまた肉に埋れた様な小さな口から唸り声が聞こえた。

「…お前、何処かで見たような…だが、こんな鄙びた山里に知り合いなどいやしないが…」

内心冷や汗をかいた。
私の顔は、自分でも驚くほど父上様に似ているのだ。
瓜二つとはまさにこのこと…と言うほどそっくりで、かつて身一つで乞食のような成りであった子供の私が、初めて父上の屋敷を訪れた時に訝しがられながらも目通りを許されたのは、この容姿…主に顔付きのお陰である。

それにしても父上様とこの豚とで言えば、接点などほとんど無いはずだ。
そもそも国司であれば精々従五位、父上様は従三位。官位で言えば雲泥の差がある、当然仕事で接点があったとも考えにくいし…もう一つの可能性は、私の顔を知っていたと言う事。
貴族の子女が顔を出すなどはしたないものであるとされるが、五節の舞姫であれば例外だし、扇でいくら隠そうとしても見えてしまう。そして私は舞姫に選ばれたことがあった。
大嘗祭や新嘗祭で舞う五節舞は、奉納舞であり主上への恭順の意を表す大切なもの。中には緊張の余りに倒れて役目を果たせなかった姫君もいたが…私は、まあ、その辺りは問題なかった。
大勢の観衆の中で舞を舞う為、顔は自ずと人の目に晒される。だが、それも宮中での祭事だ、めったやたらと覗けるものではない。
この男…本当にただの下級貴族か?

「こいつは関係ないだろ!いいかげんにしろ!」

「捨丸!お前この女が其れ程大事というのか!」

痴話喧嘩、とも言えなくないがそんなに可愛いものではない。
知行国にとって、その知行を行う国司は、間違っても機嫌を損ねることの出来ない雲の上の存在。
どんなにあの豚が理不尽な振る舞いをしようと、田堵の宮地もただ黙って耐える他なし。況してやちっぽけな村の長など口を挟めるものではない、それは居並ぶ村人達も理解しているが故只々静観する他ない。

もう夜だ。気温はぐんぐん下がってきている。体の熱を奪われ、体力を削がれる。そんな中上半身裸で血を流しながらも、阿久の声にはまだ力が有る。気力だけで立っている彼は、まだ諦めていない。
その声に、私は思考の波から引き上げられた。
豚の視線を遮るように立つ阿久。
それは、私を守ろうとしているのだろうか。
身体中傷だらけで、もう立ってるだけでやっとのはずなのに…それでもそうして身を呈して私たちを守ろうとするのは…気づきたくは無い。
気付いてはいけない感情が、そこにある。

大袈裟にため息を尽きながら、会話に割って入って来たのは蛇だ。

「よっぽど嫁が大事と見える、この後に及んで嫁の心配だなんてな。お殿様、もうこいつは要らないんじゃないですか?買ってやった恩義も忘れ、牙を剥くなんて駄犬。俺が処分してやります。」

「お前は捨丸にその目を潰されたのだったな。…いいだろうもういい、そいつは処分してくれ。この儂が可愛がってやると言っておるに、その厚情を無下にするとは…わざわざこんな回りくどい手を使って探し出してやったと言うに…もうこいつなどどうなっても良い。ついでだ。この村諸共潰してやれ。」



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