スナック富士子【第四話】
第三話 「小糠雨」
 小ぬか雨、というのだろうか。
 富士子ママは傘立てを出しながら、分厚いガラス窓の向こうの拉げた世界を見つめた。こんなうら寂しい通りでも、都会の人間は足が速い。これくらいの雨では傘も差さずに行き過ぎるのだった。ぼんやりと外を眺めていると、窓の外に立ち止まる人影があった。

 カラララランと、古いドアベルが鳴る。それは正確に言えばカウベルだった。富士子ママはすっと背を伸ばして「いらっしゃいませ」と微笑んだ。男物にしては珍しいピンストライプの柄が入った洒落た折りたたみ傘の柄を伸ばしたまま、どうしたものかと困った顔を見せた。富士子ママが傘をさりげなく受け取りながら「カウンターにします?どなたかと待ち合わせ?」と尋ねると男は「カウンターで」と答えた。その様子は物慣れているようにも見える。

 「ジン・トニック」
 と、男はカウンターに載ったドリンクメニューに目もくれないで言った。
 カウンターの中の青年が「かしこまりました」と少しだけ微笑む。富士子ママは、折りたたみ傘を傘立てと壁の間に立てかけて、カウンターの背中を見つめた。「似てる…」、と思う。それからふた息くらいついて富士子ママはカウンターに近づき、カウンター越しに手を伸ばしてタオルを取った。横顔を見ると、少しも似ていないのに、たまに後姿だけがよく似ている男がいるものだ。富士子ママはそっとタオルをカウンターに置いて、「こういう雨は濡れるわよね」と、男に言った。男はタオルを見て、富士子ママを見た。それから「ありがとう」とタオルを手にしてジャケットの肩を拭う。
 「雨なんですか?」
 と、カウンターの中の青年が言った。
 「そうよ」
 「気づかなかった。」
 と、青年は驚いたように言う。傘立てを出してたの、別の仕事をしてたのと応酬を繰り広げながら、青年はジン・トニックのグラスを男の前に置いた。

 「最近、ぼんやりしてるのよ、この子ったら。恋よ、恋の病よ」
 「そうじゃないですよ。何度言ったら分かってくれるんですか」
 「あら、私だって伊達にこの年まで生きてないのよ。せっかく話しやすい雰囲気を作ってあげようと思ってもこれだもんね。まぁね、こういうことは無理に聞かないことにしてるから。あら、いらっしゃい。」

 富士子ママは立ち上がってドアの方へ向かう。上着を受け取ったり傘を巻いたりしながら新しい客人を迎えていた。

 ため息をついた青年に、男はそっと笑いかけた。
 「身に覚えがあるよ。」
 「え?」
 「恋の病ってやつ、若い時は特に重症化しやすい。気づいていなかったりするから余計に手に負えないんだよな。でも、いつか癒えるよ。哀しいことに。」
 男はそこでグラスを傾けて一息おくと、唐突に
 「同級生が個展ね、開いたんだ」
 と言った。青年が背にしている棚に目を向けている。ボトルが並んでいるはずの棚を、まるで本棚の背表紙を確認するみたいな目で見ていた。
 「土曜日か日曜日ならいるからって案内葉書に書いてあったのに、わざわざ今日行ってきた。俺も拗らせてるよなあ」
 「初恋の相手、とか?」
 青年は男から目を逸らして訊ねた。センシティブな質問は目を見て尋ねない。それは、青年がこの仕事で覚えたコミュニケーション力のひとつだった。
 「初恋の内のひとつ、と言えるんだろうなあ。」
 青年は「初めては一度だけじゃないのですか?」と言いかけて、作業していた手を止めた。でも、男が大真面目な顔をしているのを見ると、「初めて」の「ひとつ」、という言葉を軽い冗談だと笑うタイミングを失った格好で、止めた手をまたいそいそと動かし始めた。
 「初恋の内の、ひとつ。ですか。」
 なんとなくその言葉を繰り返すと、確かに初恋がどれとは言えないような気もして、青年は胸のうちに浮かぶいくつかの恋に想いを巡らせた。
 
 男は棚から青年に目を戻し、自分の笑えない冗談に苦笑いするような表情をした。
 「そ。初恋の、ひとつ。」
 少し溶けた氷が、カランと鳴ってグラスの底に落ちた。




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