美しい月
8
「ミツキ…機嫌を直してくれ」

サイードはすっかり困っていた。さめざめと涙する美月の涙を何度も唇で掬い、髪や頬を撫でて口付ける。それでも美月は口を利く事をしてはくれない。本当に妻になれないと言われるのではないかと、不安で堪らない。

「ミツキ…ミツキ」

美月は美月で、嫁入りする国について言語以外は何も学ぼうとしなかった自分に、失望していた。急なプロポーズに急な訪国…そんな時間や余裕がなかったと言えばそれまでだが、時間は作るものだと常々上司であった常務から言われていた。それを実行に移せていなかった自分に対する落胆が激しすぎた。
こんな事で一国の、継承権は第二位とは言え、王子の妃になってよいものかと。厳しい目で、シャーラムの重臣になったつもりで自分を顧みれば、相応しくないとの結論しか出ない。それでは国に対してサイードが起こした言動に報いる事が出来るわけもなく。

「…サイード…」
「ミツキ…?」

嫌な予感がしていた。美月の涙に濡れた瞳に悲愴な決意が見えて。

「ゎ、私…」
「駄目だ」
「まだ何も…」
「妻になれないと言うのなら、却下だ」
「っ…でも…」

やはり、だ。美月の唇から、否定的な言葉を聞きたくはなかった。

「でもも何もない、お前がお前であればそれでいい。気負いも不要だ。お前は俺を愛しているのか?」
「そうじゃなかったらプロポーズなんて受けたりしな……」
「ならば何故だ」
「っ……」
「相応しいかそうでないか…今の俺には瑣末な問題だ。それを決めるのは個人であれば俺で、王族としてなら民だ。勝手に判断しようとするのは俺と民に対する冒涜に当たるぞ」

その言葉に美月は息を呑んだ。そんなつもりは一切なかったが、違う視点からならばそう映るのは当然だ。自身の不甲斐無さに、視野が狭くなっていた。

「…俺たちは全てが急すぎたかもしれん。だが俺に後悔はない。あるとすれば…互いに互いの持つ常識を知る時間がなかった事だ」
「ぁ……」
「ミツキ…先は長いと言ったはずだ。お前は俺の永遠だと、そう告げたはずだ。俺を信じると…父の…王の前でもはっきり言ってくれたのはお前だろう?」

宥める口調はささくれ立ち掛けていた美月に柔らかく浸透し、和らげていく。理解を示せば、サイードは眦にキスをくれた。

「まだこれからだ…始まってもいない事を嘆くのは無駄だ。それならもっと有益に、互いを知る為に使うべきだろう?」

気付けなかった事に申し訳ない気持ちを抱くと共に、辛抱強く諭してくれる事に愛情を感じられた。

「俺はお前が妻になると言ってくれたあの時から……いや、来日初日の晩餐会で偶然撮影された写真の中の、たった一枚に写ったお前を見たその時から…お前は俺の永遠だ。俺の…美しい月、ミツキ」
「…え…?」
「晩餐会には…俺にも招待があったが、余計な縁を作ると要りもしない女を宛がわれる可能性があった。兄上は欠席出来ないが、俺は株主ではあるが直接関係がないからな。だが…それを見て…行かなかった事を後悔した。だから兄上からランチに同席するかと言われて、お前が来る事を知り、即答だった」

反芻して苦笑いを浮かべる。美月は知らぬ真相に驚きはしたが、見初めた事情を知れて嬉しくあった。

「お前は…?いつから俺を憎からず想った?」
「ぁ……ランチの席から嫌な感じはなかったし…その後も…」
「婚前の初夜も、か?」
「っ…流された、感じはあったけど…」
「では…いつからだ?」

ピロートークよろしく、サイードは胸に美月を凭れさせ、髪を撫でて指を絡めながら握る。

「…アズィール殿下の通訳の為に社に戻って…陽菜に…サイードとどうだったか訊かれて…それが常務やアズィール殿下に話されたの」
「…あれはミズミシマのせいか」
「でも、ね?その後…サイードの案内役から外してもらった日から…傍にいないはずのサイードの香りがしたり、夜にはサイードの声で目が覚めたり…」
「『俺の美しい月』」
「…その声がするの…いないはずなのに…それで初めて、寂しい、って…」

擦り寄る美月をきつく抱き締める。

「それからずっと…」
「あぁ…ミツキ」

髪に頬擦りし、想いを込めてキスを贈る。

「ゆっくり…時間は幾ら掛けてもいい、だから…もっと深く…お前を知りたい。お前の好きも嫌いも、お前が当たり前だと思ってきた、何でもない事も」
「私にも…ね?」
「当たり前だ。その身に刻んでやる…俺の全て」

触れるだけの柔らかいキスは、深く貪るものに変わる。

「一騒動でまた焦れた…今度こそ蜜月だ、覚悟しておけ…ミツキ」
「ん…」

ふわりと抱き上げられ、姫君のようにベッドの中央に運ばれる。だがそれまでの余裕はすぐに消え、覆い被さり口付けながら、纏うシーツを毟り取る。手荒になりながら、愛撫は至極丁寧を心掛けはした。持続は数分の事だが。
それも必要がないくらいに美月も乱れて感じている。サイードを求めているのを、躯でも言葉でも教えてくれれば、サイードは歓喜した。闇雲に背筋を駆け上がる期待に、理性はとうに存在の跡すらない。美月が果てる様は何度見て感じても、身震いしてしまう。怜悧な秘書として立っていた姿と、サイードに翻弄されて乱れ喘ぐ姿のギャップが堪らない。名を呼べば、嬌声の間にたっぷりの艶を含んだ声が呼び返す。自身の名の響きが淫靡に感じられたのは初めてだ。
これが我が物かと思うだけで、次から次へと欲が湧く。しかし美月が他の誰かに抱かれた過去は、今この瞬間も気にならないわけではない。
だからこそ塗り変える…美月の全てをサイードただ一色に。
どう足掻いても過去は過去だ。過去は変わるものではない。美月はサイードが昔抱いた女など、存在すら認めたくないのだと抱かれながら泣いた。この熱を与えられた女が他にいる事実など、記憶からも事実としてもなくなればいい、と悦楽の中で切なげに訴えた。
美月の過去に激怒したサイードだが、美月にとっても同じ事だ。だからサイードが愛しさ故に美月の躯中を愛撫したがるように、与えられるばかりではなく、等しくサイードにも自らが与えたいのだと。
美月からの愛撫に抵抗がないわけではない。サイードがこれまで穢れだと当たり前に信じてきたものが、美月にすればそうではない。内外繋がれる唯一のそれは穢れではなく、[サイード]を構成する一部なのだ。どこかを排除する事など出来ない。そこから放たれたもので生まれた自身らはどうなるのかと問われれば、正しくそれに答える事も出来ないのだ。
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