美しい月
5
美月は常務に特別な予定がなければ土日休みだ。それがたった一日出社しなかっただけなのに、まるで長期で休んでいたかのように新鮮に思えた。

「美月!」
「陽菜、おはよ」
「よかったぁ…財布や携帯の入った鞄は社に届くし…もう向こうに攫われちゃったかと思ったんだから!」

秘書課の事務所では、陽菜が美月を待ち構えていた。美月を見るや駆け寄って抱き締める。美月の私物全てはカシムが保管していたらしく、昨日の朝に陽菜宛てに届けられた。

「やっぱり…陽菜だったの?」
「常務に必死で働き掛けしたんだからね」
「ありがと」

ドイツ語なら陽菜も堪能だ。アズィールから話を聞いた際、もしかしたらとは思っていた。

「そう言えば美月、こないだ休暇申請してたでしょ?庶務から連絡あったよ」
「ホント?許可出たのかな」
「イギリスで結婚式に出席かぁ…いいなぁ。しかも伯爵家でしょ?」
「従姉妹がね」

美月の従姉妹は伯爵家令息と結婚する。シンデレラ婚とイギリスで噂になっているらしいのだ。

「お土産よろしく♪」
「許可出てたらね」

早速庶務課のフロアに足を運ぶと、やはり許可の連絡だったらしく、書類を記入した。四日後から一週間の有給休暇だ。ちょうどサイードが帰国した日からの。


午前はアズィールに付き、ドイツ語通訳兼秘書として仕事をし、昼の休憩時間に自宅へ戻った。終業後では多分、帰らせてもらえないだろうと踏んでの事だ。イギリスに行く為の着替えやパスポート類の準備をし、スーツケースは先に宿泊予定のホテルに送る手続きを済ませた。実家から書留で届いていた航空券も、郵便局に受け取りに行った。
社に戻ると、陽菜が首尾を尋ねる。

「渡英の準備出来た?」
「後は換金だけ」
「それなら空港でも出来るしね」
「そうね」
「で?殿下、どう?」

その話題になると、美月の表情が曇る。

「何?何かあった?」

美月は陽菜に今日までの件を掻い摘まみながら話した。サイードと寝た事や恋人ごっこと言われた事…言動についてもだ。

「…そんな…許されるわけないじゃない!」
「…流された私にも責任はあるの…でも…」
「大株主なら社内の人間好きにしていいわけ?」
「陽菜…」
「今日、この後からは私が代わる!」
「ひ、陽菜!?」
「あったまきた!常務に話しに行くよ!」
「ちょ、ひ…陽菜!」

元来姐御肌な陽菜は、美月に対するサイードの言動が許せなかった。強引に常務の元に駆け込むと、やや怒り任せに美月から訊いた話をぶちまけた。

「……たった一日少々でそんな事になっていたのか」

常務は軽く頭を抱えていた。美月は自らがヘッドハンティングした人材で、今や娘のようなものだ。信頼出来るからこそサイードの案内役を頼んだのだが、王子のアバンチュールにまで付き合ってもらうつもりは毛頭ない。

「すまなかったな、呉原…そんなつもりではなかったんだが」
「わかっています。私も少し、考え足らずではありましたし」
「いや…私の責任だ。やはり専門のガイドを手配しよう。サイード殿下が君に掛けてくれた諸経費などについては、私の方で負担する」
「常務、そんな…」
「そうですよ!二晩も美月を好き勝手したんですから、こちらから損害賠償請求してもいいくらいです!」
「心情としては私も同じ気持ちだが…相手が悪い。アズィール殿下に間に立って頂いた方がいいな」

常務はすぐにアズィールがいる社長室に、美月と陽菜を伴って向かった。話してみればアズィールは常務と同じような反応を見せてくれる。

『…まさかそこまで手が早いとはな。ミズクレハラ、申し訳ない事をしたね』
『いえ、殿下…私にもその一端の責任は…』
『いや、サイードは確かに君を気に入っている。これまでどんな女性にも見せた事のない執着ぶりでね。私も驚いていたんだが…その様子では君を本国へ連れ帰るつもりもあるだろう』
『美月をシャーラムへですか!?』

陽菜は無意識に美月の腕を掴んでいた。行かせない、とでも言わんばかりに。

『行動力は誰よりあるんだよ、サイードは。それに侍従のカシムも優秀だ…隙なく手筈を整えているだろう。ミズクレハラ…事情は私から話す。もうサイードに付き合う必要はない』
『アズィール殿下…』

安堵したように息を付いた美月を見るに、相当の戸惑いに晒されていたのだろう。

『ミスターヤマグチ、申し訳なかった』
『いえ、殿下…元より提案したのは私です』
『謝り合いではキリがないな』

苦笑いしたアズィールに、場の空気が和んだ。

『この件に関しては私に任せてくれ』
『お願いします』

三人が頭を下げた。

『ではミズクレハラ、通常の業務に戻ってくれ』
『はい』
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