愛しい太陽
1
「アリー、頼むぞ」
『畏まりました、殿下』

アズィールは電話先の侍従アリーに依頼すると、深く椅子に身を預けた。
陽に焼けた肌にアラブ特有の彫りの深い造形、黒髪と同じく瞳は鋭くあるが、纏う雰囲気は穏やかで柔らかい。アラブの小国シャーラムの、誉れある王位継承権第一位の王太子だ。今は穏やかさの欠片もなく、眉間に皺さえ寄せている。無意識の溜息が重い。アズィールは手元の書類に目を通す気力もない様子で、別の事を考えていた。

弟王子であるサイードがついに妻を迎えた。その妻はアズィールが出資元ともなり、自身が先日社長に就任したS&J社の常務秘書だった。現在はアズィールの秘書でもある。いずれ職を離れる事を想定し、秘書がもう一人付けられた。元副社長秘書の三島陽菜だ。サイードの妻、美月と共にS&J秘書課の美女筆頭と言われていた。

経営者として社内に入ってわかったが、S&Jの秘書は非常に優秀な人材が多い。そんな中にも目を見張る働きをするのが、やはり陽菜と美月だ。美月が影からそっと支える存在ならば、陽菜は明るく照らし導く存在だ。正に二人は太陽と月。
陽菜の第一印象はツンと澄まして気位が高い、というものだった。美月と同期にヘッドハンティングされて秘書となった陽菜は、美月とは非常に仲がよく、入社三年目にして共に重役秘書に就いている。

だがあくまで第一印象…実際に数回、仮の秘書として付かせてみたが、手際もよく時間にも正確だ。分刻みのスケジュールをこなす事のあるアズィールには、秒単位まで催促してくる陽菜はありがたい存在でもある。急遽、陽菜をシャーラムに呼び寄せた理由はそれだけではない。

美月の休暇中の事――。
陽菜は美月の代わりにアズィールの秘書をしていた。日本の会議や取引先との打ち合わせに接待…シャーラムでこなして来たものとは勝手が違う。シャーラム人では時間の予測が立たないのだ。それに一役買ったのが陽菜だ。予定時間になると、やんわりと失礼のない程度に先方を促し、退散する。

『殿下、お時間ですよ。のんびりしてる暇はありません、ちゃかちゃかお願いします』

他社関係者から離れてしまうと、陽菜は口調を変える。次への移動や時間を知らせる際も、陽菜は歯に衣着せぬ物言いで、アズィールを促すのだ。日本人は兎角時間に煩い。陽菜のモットーは「最低でも五分前着」らしく、そう出来るようにアズィールのスケジュールを組む。全く無駄や隙のないそれは、パズルゲームのようだ。移動時間も無駄にせず、途中で食事が出来るようにと陽菜が弁当を作ってくる。シェフの作り立てを待つ時間などないのだ。
その代わり、定時後には相当の事がない限りアズィールに残業をさせない。徹底したそれに、侍従も感心するしかない。更には秘書の後輩指導もこなす。多忙ながら愚痴も言わず、嫌な顔すらせずに美月不在の穴も問題なく埋めている。

「三島、休日出勤を振り替えて休んでくれよ」
「休めませんよ。私休んだら誰が社長に付くんですか?」
「…う…だがなぁ…」

秘書課長は頭を悩ませているのだ。陽菜の振り替え必須な休日は三日。秘書課内では誰もが『シャーラムの次期国王』に恐れをなして敬遠してしまう。代わりを務められそうな美月はまだ不在で。

「社長がお休みなさって下さるなら問題ないと思うんですよね」
「…調整は?」
「今なら出来なくはないですよ」
「よし!私から副社長に依頼してくる!」

秘書課長は意気込んで秘書課フロアを出た。すぐに戻った秘書課長は、満面の笑みで陽菜に三日の休みを言い渡した。ちょうど土日を挟むので、五日間の思いがけない連休だ。

『…と言うわけで…大変申し訳ございませんが、社長にもお休みして頂きます』
『そうか…私に付き合わせて済まなかったね』
『いえ、仕事ですから』
『予定はあるのかい?』
『それなりに』
『恋人は?』
『まぁ、それなりに』

陽菜の言い回しははっきりしない。予定があるならあると、恋人がいるならいると言えばいいだけなのだが、そうしない。

『それなら私に付き合ってもらえないか?』
『私が…ですか?』
『君以外に誰かここにいるかい?予定のない時でいい。私が泊まっているホテルを訪ねてくれ。外出の予定もないんだ』
『…わかりました』

陽菜は溜息を付いて退社した――。


「もういいわ」
「陽菜っ!ちょっと待てよ!」
「鬱陶しいの」

翌日、陽菜は午前中から付き合いのある男と待ち合わせて会っていた。実に二十日ぶりの事。気安い躯だけの関係だった。それが二十日ぶりの逢瀬に焦れてしまい、相手の男が陽菜を責めた。他にも躯だけの男がいるのだろう、と。

「スーツ姿の外国人と二人で会社の外歩いてるのを見たぞ!」
「それが何?」
「陽菜!」
「私、彼女じゃないわ」
「っ…」
「じゃあね」

カフェを出た陽菜は、暇潰しにデパートに向かった。コスメの売場で愛用のファンデーションを注文した。そろそろ新しい別の香水が必要になるだろう、などと思いながら、あちこちの売り場を見て回っていた。気分転換に新しいスーツでもと思い、売り場に向かっている時だった。

『失礼、あなたは…ミズミシマでは?』
『…アリーさん?』

アズィールの侍従アリーとスーツ売場で出会した。

『ショッピングですか』
『新しいスーツを新調しようと思って』
『お一人でいらっしゃいますか?』
『えぇ。美月はイギリスで、買い物に付き合ってもらえませんから』
『ではこの後、我が殿下とお食事など如何でしょう?』
陽菜はついつい正直に答えた事を、貼付けた営業用スマイルの下で悔いていた。
『いえ…買い物が長いのでお待たせするわけにはいきません』
『それでしたらディナーに致しましょう。夕刻、ご自宅まで迎えに参ります』
『え!?』
『では』
『ア、アリーさん!?』

陽菜が断る間もなく、アリーは背を向けて消えた。

「…マジ!?」

重い溜息を付き、陽菜は売場を後にする。買い物をする気力も、見て回る気力も削がれたのだ。昼過ぎには収穫のないまま自宅に着いた。陽菜はラップトップを開き、シャーラムやその周辺諸国の文化を調べていた。異文化の相手である事がわかっているのだから、それは陽菜としては当然だ。
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