愛しい太陽
7
 静かになった寝室で、陽菜は氷嚢の冷たさを感じながら、小さく丸くなっていた。本音を言えば、思わぬ体調不良で妙に心細くあった。アズィールが即座に予定を全てキャンセルすると言った時、自分が立てたスケジュールに幾つかの重要な案件がある事も思い出した。
それよりも陽菜を選んでくれた事に、甘く胸が疼いた。体調さえよければ、抱き着いていたかもしれない程に。
しかしそれを受け入れるわけにはいかない。アズィールにはそれらをこなしてもらわねばならないのだ。
社長秘書としての矜持が理性を強く後押しした。眩暈に誘われて顔を出し始めていた頭痛にも苛まれたその結果、無礼とも取られる物言いで退ける事になったのだが。
 秘書として付く相手を支えはしても、その逆に手を掛けさせてはならない…陽菜の鉄則のうちの一つだ。日本ではなく本国での仕事なら、こちらの侍従は十分に付いていける。ならば陽菜はそうしてもらうまで。
どうやらアリーは陽菜の言葉の裏を読み取れたらしく、アズィールを公務へ促してくれた。アリーがいるなら心配はない。

「ヒナ様、よろしいですか?」
「…アリー、さん?」

姿を見せたのはアリーだった。

「オレンジをお持ちしました。少し凍っていますので、さっぱり召し上がって頂けますよ」
「ごめんなさい、アリーさん」
「いえ、こちらも配慮が足らず」
「自己管理が出来ないなんて…秘書失格です」

起き上がってみると、眩暈は随分収まっていた。

「少しでも召し上がって下さい。殿下もあと数時間で戻られる予定ですから」
「ぇ…?かなり早くないですか?スケジュール通りならまだ…」

オレンジを口にしようとした手が止まる。心なしか眩暈が戻って来たような気もした。

「きちんとこなしておいでですよ」
「実はどこか端折ってるんじゃ…」
「間違いなく、スケジュール通りです」
「その割には時間が…」
「そこは愛の力とでも申しておきましょうか」
「……は?」
「愛の力です」
「…いや、だからアリーさん」
「アズィール殿下のヒナ様を想う愛の力です」
「そ、そうではなくてですね…」
「ヒナ様を心配するが故に早く戻りたくて、公務も必死にこなされております。偏に愛の力です」
「…ア、アリーさん?」
「はい、愛の力です」
「……あの…」
「愛の力ですが、どうかなさいましたか?」
「いえ…何かそれ以上訊いても変わらない事がわかったからいいです」

何を言うにもアリーの口からは【愛の力】との返答で、陽菜は蟀谷を押さえた。

「さぁ、ヒナ様。召し上がられましたら、殿下が戻られるまでもう暫くお休み下さい。殿下が戻られれば、立ち所にお躯の不調もよくなりましょう」
「あ」

すっかりオレンジの存在を忘れていた陽菜は、漸く小袋も綺麗に処理されたオレンジの果実を口に運ぶ。まだ一部が凍っていて、噛めばシャリッとする部分も果実が弾ける部分もあり甘みも十分だ。完食するまでに氷嚢が取り替えられ、また横になるよう促された。

「香を焚いておきましょう、精神的に落ち着けるはずですから、ゆっくりお休み頂けます」

アリーは香を焚くと静かに寝室を出た。くゆる香りはどこかで嗅いだ覚えがある。胸が疼いて仕方ないので思い出そうとするのだが、霞み掛かった思考ではそれが何だかわからない。部屋に香りが満ちてくると、まるで抱き締められているような錯覚を覚えた。ふと浮かんで来たのは人影だ。誰かの纏う香り――。

「……、…」

無意識に誰かを呼んでいた。訳もなく不安になって自身抱き締めて慰める。早く眠りの底に沈んでしまいたいのに、ゆらゆらと水面を漂っている状態だ。いっそ起きてしまえばよいのだが、香の香りは眠りを誘う。どっちつかずは苦しくて、でも選ぶのは怖い。

【私の愛しい太陽】

耳に心地好い音域で、そう陽菜を形容するのはこの世に一人だけだ。無性にそれを聞きたいと感じるのは、やはり恋しいからだろうか?じわじわと躯が水面を離れていく。明るさを感じなくなってきた。これで堂々巡りな思考から解放されるのだと安堵したまま、陽菜は深い寝息を立て始めた――。




「ヒナは?」
「二時間程前にオレンジを召し上がった後、また眠られたようです」

予定より三時間早く戻ったアズィールは、開口一番陽菜の安否を問う。アリーの返事を聞きながら足早に向かうのは、陽菜が眠っている寝室だ。
すでに日も落ちて、肌寒い風が砂漠から吹き付ける。アズィールの香が焚かれた寝室は、アリーの配慮で暑くもなく涼しくもない状態ではあるが、陽菜とこちらで暮らしている人間とでは体感温度も違うはずだ。
そっと寝台に近付くと、陽菜は身を小さくして猫が丸くなるように眠っていた。それは微笑ましい姿にも映るが、寒いのか不安なのか…陽菜は自身を抱き締めるように寝息を立てる。
アズィールは思わず陽菜の頬に手を伸ばしていた。

「ヒナ?」

ふと身じろいだ陽菜が、何事か呟いた。聞き取れず、耳を澄ませて顔を寄せる。

「……ズ…、…」

囁く唇に呼ばれ、安堵の息が漏れる。
愛しい名は公務の最中にも何度口にしたかわからない。アズィールは行く先々でどうしたのかと問われた。何故だかまで考えず、陽菜の件に触れて心配だと言えば、どこもが早く切り上げてくれる。
珍しく落ち着きのない自身を、アズィールが無自覚であったのも手伝っていたのだが。
その話は勝手に広まり、行く前に今日は…と、遠慮してくれる相手もいた程だ。きっと陽菜に知れればまた手厳しい一言が待っているだろうかと、苦笑いしてしまうが、心配してしまうのは仕方がない。逆に自己管理をしっかりするよう言い返してやろうとも思った。

「……、…ル?」

ささやかな呼び声に、アズィールは無言で唇にキスをする。

「…ちゃ、んと…」
「勿論だ。行って来たが…どこでも早く帰れと追い返されてしまった。行く前に次の機会にと言ってくる相手もいたな」
「……ごめん、なさい」

慰めるようにキスを繰り返す。体調不良で精神的にも参っているのかもしれない。

「気にする事はないよ。私とした事が…どうやら心配が表に出ていたようだ」
< 12 / 17 >

この作品をシェア

pagetop