愛しい太陽
3
リビングに移動した二人は、ワインを飲みながら言葉少なでいた。十四も年上のアラブの王太子は、理解もある大人な男だ。陽菜はもっと年上の男に抱かれた事もあったが、精神的な余裕なのか、アズィール以上の包容力はなかった。
今も…隣に座るアズィールは、そっと肩を引き寄せて、甘やかすように髪を梳いてくれている。引き寄せる腕や頭を預ける肩は硬く頼り甲斐のあるものだ。
数多の女たちはこうされてハレムに入ったのだろうか…そう考えて僅かばかり理解出来る気がした。密着していて感じるのはそれだけではない。アズィールの纏う香りは、香水とはまた違う気がした。

『…香水、ですか?』
『いや…今はしていないが、本国に帰れば欠かさない。気になるか?』
『不思議な香り…』
『香水とは少し違うからな、香油だ。湯浴みの後、塗り込めるんだ』
『じゃあ…アズィール、の…香り?』
『体臭かもしれないな』

首を捻って見上げれば、苦笑いしたアズィールがいる。

『嫌か?』
『…香水より…ずっといい』

アズィールの首筋に鼻先が触れた。

『そうか…乳香を使っているせいで、熱が加わると香りが強くなる』
『…シャーラムではオーソドックス?』
『そう、ではない…これは私の為のものだ。サイードにもサイードの為のものがある』
陽菜が喋ると、首筋に息が掛かる。耳元が弱いと言うのを一般論として聞いた事はあったが、首もそうとは知らなかった。
『…ヒナも香水をしていたな』
『…もう変えます』

俯いて肩に凭れた陽菜。

『…理由を…訊いても構わないか?』
『関係が終わるたびに変えるんです』
『っ…』
『毎回、使い切る事はないですが…』

肩を抱く腕に力が込められた。

『…ごめんなさい…こんな話…』
『謝る事はない、訊いたのは私だろう?私が訊きたかったんだ』
『…綺麗な話じゃないから…アズィール、の…耳には入れるべきじゃ…』
『そんな事はない。私はヒナの話を訊きたいんだよ…隠したがる事ですら、暴いてやりたくなるくらいにね』

身を小さくする陽菜をしっかりと抱く。ローテーブルにグラスを戻し、陽菜からも取り上げる。

『ヒナ…君を私に教えてくれないか?』
『…私の事なんて…』
『君の全てを暴きたい』

向き合ったアズィールは、頑なな陽菜が折れるまで選びに選んだ言葉を重ねた。

そうして引き出した陰惨な過去――。母は陽菜を一人で育てたが、その為だと言い訳して男を転々としていた。男に媚びて養ってもらう母を、陽菜は嫌悪した。
働かない母のような女にはならないと誓い、バイト三昧の中、自力で短大を卒業した陽菜だが、その人生を変えた原因はやはり母だった。
 当時、十九だった陽菜の母が一緒に暮らしていた男は、母から聞いたが実の父だった。ヨリが戻ったらしかったが、父は陽菜が我が子だとも知らず、ろくな男ではなかった。
働かない父だったので、母は水商売に出ていたが、母不在の夜――その実父に性的暴行を働かれのだ。逃げるように家を飛び出し、傷付いた心身を抱えたまま、陽菜は一人で生きる為に自身の可能性を探り続けた。そして漸く辿り着いた職業が秘書で。
美月同様に他社で大成しつつあった陽菜を、常務がヘッドハンティングし、今や親友とも呼べる美月に出会った。


アズィールは腸が千切れそうな思いだ。だが不思議に思うのは、それで男に恐怖心を抱いていない事だ。

『…男が怖くならなかったのか?』
『暫くは…ありました。でもどんな仕事をするにもそれでは勤まらなくて。だから躯だけの相手を作ったんです…合意での接触を増やして、あの時の事に塗り重ねて…』

それが今も続いているだけ…そう締め括られた。アズィールにすれば、【だけ】ではない。いつまでも終わる事のない、悲しい連鎖だ。
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