徹底的にクールな男達

当然の離婚

 柳原に相談した瞬間はなんとかなるかもしれないと思ったが、実際は子宮の病気のことが浮上したし、そのタイミングを掴むのが難しくて、何もできずに終わった。

 同じ家の中で生活をしながら、会話をしない。

 目も合わさない。

 顔もできるだけ合わさない。

 食事は武之内が仕事に出ているうちに終わらせる。

 彼が休みの日は、日がな一日中部屋にいる。

 その部屋には小さなソファとローテーブルくらいしかないが、そこで寝起きする。

 その努力が嫌で仕事に戻ることに決めた。

 武之内には何も言わず、勝手に復帰手続きの書類を本社に出した。

 しかし、それを勝手、と解釈するのは間違っていると思う。

 だって、例えば、夫婦同じ会社でないのなら、今日会社に復帰の手続きをしたよ、と別にわざわざ報告しないと思うし、仕事に出ることにしたの、ふーんという会話で済むと思う。

 だから、

「聞いてないけど」。

 午後19時。いつぶりかにわざわざ部屋を訪ねて話しかけてきたと思ったら、そのことだった。

 まだ制服姿の武之内はもちろん食事もとっておらず、ダイニングテーブルの上には、何の用意もない。

 既に風呂を終えた依子は、ソファの上でスマホのゲームをしていた手をすぐに止め、距離を取って座りなおした。

 先日の流産の定期健診で、子宮内膜増殖症だと診断されたことを即座に思い出し、話の後に報告すべきかどうか迷う。

 だが、精密検査はまだ終わっていない状況だし、どうせ検査結果は良いだろうし、それなら、関係のない話になるし。

 目の前に地べたで座った武之内は、しかし、一度立ち上がると、出て行き、リビングの灰皿を手に座った。

 流産した途端、これだ。

 依子は、横目で視線を遠ざけると、鼻で息を吐いた。

「復帰届けはいつ出したの?」

 胸ポケットから煙草を取り出し、一本出して、すぐにライターで火をつけた。

 煙はこちらには飛んでこない。

「…………」

「……別に……いいけど」

 既に、どうでもいいのか、あきらめが早い。

「今日人事部長から連絡があって驚いたよ。どの店で復帰するかって。何も知らない俺は、ただ驚くばかりで……うまくいってないことは、明確に伝わったと思う」

 だから何ですか。

「言うタイミングがなかったから言ってなかったけど、2週間くらい前に内示があって。

 俺は東都シティの福店長になる。正式な異動は1か月後だから」

「……」

 依子は頭を小刻みに縦に動かした。仕事ができる人というのは、こういう人だというのを実感したまでだ。

 東都シティの副店長、柳原が異動するのか、そうかもう1人の副店長が対象なのかは分からないが、それを今、武之内に聞く気にはなれない。

「それで依子が、そこのカウンターだ」

「……え?」

 さすがにその目を見た。

 予想では目が合うと思っていたのに、彼は、それを避けるように、視線を逸らして煙を吸った。

「夫婦で、同じ店って……」

「1か月間だけだ。その後依子はどこか別の店か、東都の倉庫になる予定だということだった」

 まさかの望みが現実になったんだと、一気に先が明るくなる。

 しかし、武之内は続けた。

「……中型店舗から休み2か月取って……たとえ1か月だけでも、東都のカウンターというのは、さすがに厳しい。と、俺は思う」

「……」

 それは、自分でもよく分かる……。今やる気になっていたって、実力がない分即戦力にはなれない。

「そう思うと俺は言った。人事部長に。そしたら、なんて返してきたと思う??」

 珍しい質問口調に戸惑ったが、顔を上げずにそのまま聞き続けた。

「柳原が依子を押したと言っていた」

「、え?」

今度は目が合った。こちらを睨む冷たい視線と。

 依子はすぐに逸らす。

「どういうことか、説明してくれ……」

 灰皿にくしゃりと曲がった、吸い殻が落ちる。
「どういう事か、説明しろ!!」

 テーブルの上に拳を叩きつけ、バン!!と大きな音が響く。

「きゃ!!」

 はずみで、グラスが横倒しになり、麦茶が少しテーブルに零れた。

 反射で、ソファの更に隅に寄った依子は、怯えながらその握りしめた拳を見つめる。

 武之内はそれでも、冷静さを保っているように見えた。

「人事部長に言われたよ……」

 くぐもった声は、全部床に向けられている。

「俺と一緒に暮らすようになって仕事への視線が変わって、その話が柳原にいって、部長に推薦したんじゃないのかって。

 ……だから俺は、知らないとはっきり言った」

「………」

「俺は、依子が仕事に対する視線を変えたのかどうかも知らないし、仕事に復帰したいと思っていたのかどうかも知らない」

「………」

 だから、それは……。

「部長は柳原本人に確認すると言っていた。依子とどういう関係なのかって。事次第では、あいつはランクを下げられての異動だ」

「こ、事って…」

 武之内は顔を上げて、視線を合わせた。口調は緩めず、そのまま、追い打ちをかけて来る。

「依子と柳原が一体どういう関係だってことだよ…。

 東都のレジに上げるなんて、どういう了見があってかって思うだろ!? 

 しかも、柳原と最後に働いた時には、依子倉庫に落とされている。それが、何が一転東都のレジだ」

「…………」

 依子は視線を外した。

「いつからだ」

「………」

 いつからでもないものをいつからだといわれても、返答に焦って答えられなくなる。

「言えないような頃からか?

子供はあいつの子だっかのか?」

 あり得ない一言が胸に突き刺さり、途端に涙が零れた。

「……それも俺のせいにする気だろ」

「違う!!!」

 絶対に否定しなければと、即座に声を荒げた。

「違うよ! 全然! 何も違う!」

「何が」 

 武之内は途端にこちらの気持ちを見透かしているとでも言いたげに、思い切り身を引いて、見下した。

「私は、柳原副店長が私の事を押した理由も分からないし、そんな増してや……」

 子供の父親ではないなんて、そんな言葉が出るはずがない。

「本当に何も知らないのに、勝手にそんな話が出たとでも言うつもりか」

 完全に疑っている。

 それは疑いだ。

 けれども……。

「……柳原副店長に、仕事に復帰したいって相談はした」

「……………」

 ライターをカチと鳴らす音がし、次いで息を吸って吐く音が聞こえた。

「で?」

「それだけ」

「……いつ、どこで」

「ちょっと前……。一緒にランチ食べに行って」

「あそう」

 間髪入れないいつもの「あそう」に、既にどうでもよくなっていることが空気で分かる。

「………私も、働かなきゃ、と思って」

 そう思ったのは、後藤田に言われたからだ。離婚するためには、1人で生きていけるようになっていないといけない。

 今、独身の時の貯金はそのままあるけれども、きちんと仕事に戻って地盤を固めてから、出て行きたいと思っていた。

 でも……別に今すぐ出て行ったっていい。

「なんで」

 武之内は一口だけ吸ったタバコを、灰皿にそのまま置いた。

「…………。有給もなくなって、休職中になるし」

「………、離婚する前に仕事に戻っとこうと思ったのか」

「…」

 見事見抜かれて脱帽した。

 しかも、それを顔で悟られたことも分かる。

「…………」

 武之内はタバコをそのままに、ふらりと立ち上がると、ドアに手をかけた。

 目の前からいなくなった途端、息ができるようになった気がしたが、次いで、玄関のドアが開いた音がした。

 その瞬間、今結論を出す時なのかもしれないと、依子は立ち上がって走った。

「待って!!」
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