三十路で初恋、仕切り直します。

『桃庵』は泰菜の実家のご近所さんが経営しているちいさな居酒屋だ。洒落っ気のない古風な佇まいが昔と変わらずそのままであることに、自然と笑みがこぼれる。


泰菜の家は父子家庭で、泰菜が小さい頃から外食といえばもっぱら父の行きつけのこの店だった。

桜木の無垢板で造られたカウンターに、愛想のない殺風景な内装。けれど味は本物で、こじんまりとした店内はいつも常連のおじさんたちで賑わっていた。


「あー。久し振りにおじさんのモツ煮、食べたくなっちゃったなぁ」


彼と付き合っていた頃はそれなりにお淑やかぶって、デートはいつもイタリアンレストランやおしゃれなバーに行き、赤提灯に暖簾がかかった如何にも『サラリーマン御用達』の居酒屋になど寄り付かなかった。

けれど生来おいしいものに目がない泰菜は、本当は気を張らずに楽しめる庶民的なお店の方が好きだった。


「よし、今日は飲も!」


若い娘なら一人で入店するのも躊躇うような渋い紺色の暖簾をくぐり、引き戸に手をかけたところでそれに気付いた。




『本日貸切』




達筆な文字で書かれた木札が下がっていた。曇り硝子の向こうからは中年くらいの男たちの朗らかな笑い声や賑やかな話し声が折り重なって聞こえてくる。


「なんだ残念。せっかくおじさんの作ったお料理食べたかったのに。今日は踏んだり蹴ったりね」


今晩は地元に残っている友達と久し振りに会う約束があったから帰省してきたのにドタキャンされ、かといって父の住んでいるマンションにも行きづらい事情があり、せめて夕食だけでもどこかで済ませようと思っていたのに。

たのしみにしていた『桃庵』での食事も出来ず、当てが外れた泰菜はこれからどこで一晩過ごそうかと考えながら歩き出したときだった。


背後でいきなり大きな音をたてて扉が開かれたかと思うと、濃紺の作務衣を着て白い和帽をかぶった店員姿の男が店から飛び出してきた。


「……え、もしかして、英達(エイタツ)にいちゃん……!?」


逆光ですぐには顔が見えなかった。でも目が馴染んでくるとそれが背格好が良く似ただけの別人であることに気付く。


「……なんだ法資(ホウスケ)か」
「なんだとは何だ」


むっつり返してきたのはこの『桃庵』の次男坊で、泰菜とは幼稚園から高校までずっと同じ学校だった腐れ縁の幼馴染、桃木法資(モモキホウスケ)だった。





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