晩靄(ばんあい)
第1部

青年は街をめざし


それが青年の気付きであり、自らに従った結論であった。
正義と真理に服従し、ビクトール・ユゴーの
レ・ミゼラブルの主人公になって青年は自分の生まれた土地を逃げ出した。
神様や天使とか悪魔を彼は信じている。
根も葉もない人間の空想なら、何故青年はこの生き物にこの土地を追われたのだろう。
真理というものの幻想に追い出されたのだ。

これから先の行く先を決めるなら、ずっと遠くで命を危険にさらす場所がいい。
今心は軽くなった。
木の枝の活き活きとした緑。
彼は糸のような希望という一筋の光を
その木々に繋ぎあわせた。
それでなくてどうして先を進める事ができるのか。
「大丈夫か。」
気に掛けてくれる。そんな人のいないこの孤独の森で、どうして街へ行けるのか。

幾日かが過ぎ、空腹に気が遠のいてその場に
眠り込んだ。
じっと青空を見上げ、そうだこれで真に行きたい場所にいけるんだ。
その喜びに生きる活力を青年は取り戻した。
どんなに今まで生きていた中で美しい場面だろう。
無毒な鳥の囀ずり。
彼を必要とする者はない。
利用する者はない。
どんなに腹のなかは空っぽで、自分は押し黙り森の音楽を聞いているのだろう。

純粋な者というもの。心という心が音楽に運ばれて、彼の身体を奮い起こさせたように
青年は再び歩き始めた。
なんだ、森の出口は目の前だった。
青年は初めて見る白亜の城壁に、
天の扉を見つけたような顔つきをした。
壁に【壁を叩け】と書いてある。
青年は壁の通りにした。
中にある家だろうか、女の人がやって来た。
叩いた壁の音を聞いて出てきたのだ。
魔女の嫌いがあった。
「誰さん。」
女性が訊ねた。
「名前は捨てました。壁に書いてある通りにしただけなんです。」
彼はなんでもないように言い捨てた。
「壁なんかあったかしら。」
女性が不思議がったので、青年はそれを指差した。
「ここに、」
青年が言いかけると、壁は消え失せた。
「確かにここにあった筈なのに。」
青年は後悔した。
女性の耳障りな笑い声が響いた。
「この街はあなたみたいな人ばかりなんですか。」
「似たり寄ったりよ。そうね、ドナの家へ行ったら?この通りを真っ直ぐ行って、青い屋根の家。」
急に愛想が尽きたのか、彼女は言った。
「ご親切にどうも。」
青年はそこから離れた。
歩いていると波の音が聞こえた。
海が近いんだ。
青年の心が躍った。海なんていったいいつ以来行っていないかったろう。
生命の根源である波の音は、体内の郷愁を誘う。ガイアの音、命の螺旋が抱かれた偉大なる力は、生きとし生きる者を作り上げる。我々はその力を神と呼んだ。

彼女は青い屋根と言った。きっとあの店だ。
彼女は宿泊する場所を教えてくれたのかと思ったが、どうやら服屋だった。しかも女性服ばかりだ。
「いらっしゃい。」
店員が声をかけた。
「あなた、何処から来たの。そんな格好で、そんなんじゃ死んでしまうわ。」
青年を見るなり、女性の店員は言った。
「えぇ、僕は死んでしまっても構わないんです。ただ、この街は命の危険があると知って、やって来たんです。」
店員は困惑して誰かを探す仕草をした。
「バカな事言わないで、死んでしまっても構わないなんて、ちょっとこっちに来て、この部屋で休んで。水でも飲めばましになるでしょ。」
親切に女性の店員はお店の2階にある部屋まで青年を連れて行ってくれた。
「綺麗な海だ。」
2階に上がる階段が外にでていて、海が見えた。
「でも、潮風が鉄を錆びさせるから、揺れると少し怖いの。どうしても主人が海辺に住みたいと言うから、しかたなくここに住んでるの。」
もどかしそうに女性は言った。
「ご主人がいらっしゃるんですか。」
若い女性だったので青年は驚いた。
「籍はまだ入れてないけど、もうじき正式に夫婦になるの。あと、ジェラルドはこの店のオーナーだから、主人って呼んでる。」
困ったような顔で、ドナは言った。
「他になにか必要な物はある?」
2階の部屋でドナは訊ねた。
「気にしないでお店に戻って下さい。本当にありがとうございます。」
青年は笑顔で言った。
「お茶と水をおいておくから、夕方までお店にいるから、なにかあったら下に来てね。」
ここまで面倒を見てくれるなんて、とても幸せな気持ちを青年はひさびさに感じた。
水を口にすると、胃が辛そうな動きをしたのがわかった。
ソファに横たわると、波の音が眠りを誘った。
白昼夢を13時には特別見ることができるのだろう。

~青年が道端でしゃがみこんで泣きじゃくっている。何処かで見たような懐かしい顔。
こちらを睨み付け、非難をしているようだ。
これはきっと悪魔の見せる夢だ。
青年が気が付くと、泣きじゃくっていた青年は闇に消え、白く大きな客船が現れた。それは光輝き~
青年は目を醒ました。
午後の日差しが部屋に降り注ぎ、潮の香りが白いレースのカーテンを揺さぶるのを夢の続きのように眺めた。
ここはいったい天国なのだろうか。ここまで美しい夢があっただろうか。
そして全てを思いだし、深く息をした。
2時間は眠っていたようだった。また時をもて余してしまう。
青年はドナの店へ下りた。
ドナは接客中だった。
「どなた?」
怪訝な顔で客がドナに訊ねた。
「名前は捨てました。ある遠い街から来ました。」
青年は得意気に言った。夢のお陰で自信を付けたのだ。
彼女達は笑った。
「ソフィアにはあった?」
客が訊ねた。
「ソフィア?」
青年が訊ね返す。
「街の入り口を陣取ってる変わった女。
壁を叩けとかなんとか。」
「あっ会いました、確かに変わった女性がいました。壁は叩くと消えました。」
青年がそうな風に言うと、ドナは驚いた顔をした。
「壁が消えた旅人は初めてだわ。」
ドナは幽霊を見たような顔で青年を見ると、そう言った。
「壁を消してはまずかったですか。」
「ええ、とてもまずいわ。」
客の女性は言った。
「僕は教会で悪魔に会いました。悪魔は昔約束をした事を破ったんだと、言い掛かりをつけて来ました。僕には身に覚えの無いことで、自分が生まれる前の人生の時に、彼等の土地を譲ってもらった事があったらしく、それは貧困に負けた為に悪魔に魂を売ったらしいんです。
悪魔は僕が前世の人生を終える時に、『新しい生を神様から授かる時は、悪魔を弾圧する教会に入ってはならない。また、洗礼を受けてはならない。』そう約束したらしいんです。けれど、僕は洗礼を受けたし、悪魔を弾圧する教会にもはいってしまった。悪魔は約束を破った時の保証を自分で思いだし、それを実行しろと
言いました。教会に打ち明けると、約束を破ったんだからその通りにしろと言うので、僕はこの道で迷っていました。何か関係はありますか。」
ドナは沈黙していた。
「とても複雑なおもいだわ。」
客の女性は言った。
「信じなくていいです。僕も夢だと疑いました。」
「前世があるのか、私には半信半疑ね。悪魔はソフィアがいるから、信じたくもなるわ。」
客の女性は返した。
「神様の話や悪魔は教会の外だってしていい筈だし、寧ろ教会の外の方が彼等の力が働ているものなの。地球の営みは神様そのもので、悪魔そのものだから。けれど、自分の生まれる前の事ってお爺様に訪ねても、2時間は聞き終わるのにかかるのよ。責任を持つ必要があるのかしら。」
ドナは訝しく思い言った。
「全くその通りです。僕は揺すられ、たかられているような気持ちです。」
青年は感極まっていた。
「でも、相手が悪魔だもの、逃げようがないわね。」
客の女性は言った。
「逃げようなんて、考えてません。悪魔の言っている事が、ただしいなら、僕は保証を思い出さなければならないのです。」
「そうね。約束は守らないといけないわね。」
ドナは青年に、頷いた。
「保証ってどんな事かしら。」
客の女性が考えてくれた。
「貧困の時にくれた土地でしょ?とても凄いものを保証したのよ。魂とか。」
ドナが言った。
「僕も多分そうだと思うんです。その他に死んだ後持っていけるものなんてありません。」
「前の生の家族の魂とかもありそうね。貧困なら、家族もかかわるじゃない?」
ドナが思い付いて言った。
「前に飼ってた犬とか、家とか。」
「どれもそんな気がしてくる。」
「でも、思い出さなければダメなの。今思い付いたのじゃ洗礼されてるからきっとダメなのよ。だから、洗礼を受ける前に頭を戻して、思い出さなければならないのよ。」
ドナが言った。
「ドナがいてくれて良かった。出会って少ししか立ってないけど。」
「悪魔は今度はいつくるの?」
客の女性が訪ねた。
「わかりません。何せ悪いやつだから。」
青年は答えた。
「ドナは平気?奴は彼女や他の人にあなたのような事をすると思う?」
客の女性は初めて笑顔を曇らせて言った。
「僕も気がかりになりました。ここから出なければなりません。」
青年は言った。
「私なら平気よ。」
ドナは急き込んで言った。
「いいえ。平気じゃない。もしかしたら、壁が消えたのが、この事に関係するかもしれません。なので、僕はソフィアの所へもう一度行ってみます。あの人は何か知っているような顔で僕を見ました。」
「確かに何かわかりそうね。もし、何もわからないなら、戻って来なさいね。」
とドナは心から言った。

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