狂妄のアイリス
「狂ってくれるのは嬉しいよ。そのお陰で、僕はこうして話せるんだから」


 室内だというのに、相変わらず樹はコートにマフラーを巻いた黒ずくめ。

 鏡に映らない幻覚が、ほほ笑んで語りかけてくる。

 お墓参りのあの日に、私は私の幻覚と再会した。

 それから度々、樹は私の視界に現れる。


「でも、本当に死んじゃダメだよ。蛍が死んだら僕も死ぬんだから」


 私の肩にそっと樹の手が乗せられる。

 その姿を認めながらも、私は樹をずっと無視し続けていた。

 そうすることだけが、ささやかな抵抗だった。

 蛇口を開けても、排水溝は閉じたままだった。

 私は樹を見ずに、そこに溜まっていく淡い紅の水を眺める。

 私の血が水道水で薄まって、溢れていく。


「うぅ……」


 意図しないうめき声が漏れる。

 痛みでめまいがしそうだった。
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