駅前ベーカリー
駅前ベーカリー
 水曜日と金曜日だけは、香ばしい香りから始めたい。そんなことを思ったのは、おそらく仕事に疲れを感じ始めてきたからだろう。それと、出会ってしまったから。妙に印象に残るあの笑顔に。

「おはようございます。いつもご利用、ありがとうございます。」
「えっと…はい。」

 曖昧な返事をしてしまうのは理真が低血圧だからである。起きてまだ20分。朝食も食べていない脳はまだ目覚めていない。この脳を目覚めさせるために、今日はバタールを2切れ選んだ。

「カフェモカ、少々お待ち下さい。」

 目の前で対応している彼、岡田の笑顔は今の理真にとって少なからず癒しの要素である。岡田はいつものごとくテキパキとカフェモカのボタンを押し、皿にバタールとクロワッサンを乗せた。カフェモカがカップに注がれるまでの30秒は岡田お得意のフリートークタイムである。

「いつも朝、早いですね。」
「あ、はい。仕事、終わらないので。」
「お忙しい仕事に就かれているんですね。」

 理真は苦笑いを零す。5月末の今、今年社会人となった理真の疲労はこの2ヶ月にたまらなかったことがない。それほどに忙しいのだ、理真の仕事は。

「カフェモカにバタール、クロワッサンです。バターとジャム、どちらになさいますか?」
「バターで。」
「かしこまりました。どうぞ。」
「ありがとうございます。」
「どうぞごゆっくりお過ごしください。」

 完璧な笑顔。思えば多分、理真が初めて見た時の岡田もこんな笑顔を浮かべていた。他の店員となんらかわりのないマニュアル通りの対応のはずなのに、彼だけなぜか目をひいた。…人懐っこい人なのだろうか。

(ごゆっくりって言われても、いつもごゆっくりできないから申し訳ない…。)
 
 時間は6時30分。15分で食べて、ここから自転車で5分の勤務地、学校へ向かう。カフェモカをそっと口に含み、脳の目覚めを待つ。寝不足なんかは仕事ができない理由にならない。

「ごちそうさまでした。」

 たとえ一人で食事をしようがしまいが必ず挨拶はする。それは一教師として、一社会人として必要なことだと理真は思っている。空になったお皿とカップを確認し、トレイを戻そうとすると、トレイは別の手に持っていかれた。

「美味しく食べて下さり、ありがとうございます。またのご来店をお待ちしています。」

 岡田の笑顔に、仕事場に向かう憂鬱が少しだけ晴れたような気がした。少しくらい自分にご褒美をあげなくちゃ、頑張れるものだって頑張れない。今の理真にとっては朝、この駅前のベーカリーで過ごすたった15分の時間がご褒美だ。

「やっぱり良い朝!…仕方ない、仕事行くか。」

 理真は青い空を見上げて、気合いを入れた。今日は水曜日。まだ週は折り返していない。
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