『ホットケーキ』シリーズ続編- 【 蜜 海 】
4.
 鍵を開けてドアノブを掴んだ湖山の手首を大沢が掴んだ。大沢の手はひやりと冷たい。
 「待って、湖山さん、もっかい確認させて。これって…つまり、そういう…意味、だよね?──ごめん。無粋だ、けど、でも、…」
 大沢の顔は長い前髪に隠れて見えない。手首を見つめているのか、その下を見つめているのか分からない。
 「そういう、意味だよ。」
 湖山は自分の手首を掴まえている大沢の手にもう一方の手を添えた。確かな覚悟を大沢に伝えるつもりで。
 「…かった。分った。じゃぁ、俺ちょっとコンビニ行って来る。湖山さん、鍵貸して。湖山さんは先に入ってて。」
 そういうと、大沢は駆け足で廊下を戻って行った。

 カチャンとドアが閉まる音が暗い部屋に響く。熱帯魚の水槽がカタカタと鳴っている。湖山は洗面所へ行ってバスタブにお湯を張った。バスタブの縁に座り、ヒタヒタと張る湯の水面が上がってくるのを見詰めていた。

 ──コンビニ行って来る。
 先ほどの大沢の言葉がふと脳裏に蘇ると湖山は急に気恥ずかしくなった。唇に触れた手が冷たいのは、バスタブに熱を奪われたからなのか、それとも頭に血が上ったからなのか。湖山はすっくと立ち上がって風呂場を出た。自分が言い出したことなのに、時間が経つにつれて現実味を増して来てやっとその言葉の本当の重さを知るような気がする。今更逃げ出すことなどできない。その覚悟ができていたはずなのにと思う。体中の力をソファに預けるように座った湖山はリモコンを2度ほどその手からポロリと落としてやっとテレビをつけた。ファッション誌から抜け出たような流行作家が可愛らしいアナウンサーと並んで心の問題について何か言葉柔らかに語っていた。
 ソファーのアームに腕枕をするようにしてテレビを見ていると、うとうとと眠くなった。鍵を開けた音にふと目を開けそっと頭を上げると大沢がリビングの入り口に立っていた。
 「寝ちゃってたの?」
 と大沢が優しい声で尋ねた。伸びた前髪が少し束になって細めた大沢の目を掠めるように額を落ちる。大沢は上着を脱ぎながら室内に入ってくると、ローテーブルにレジ袋を置いて上着の腕を抜いた。それから、上着をソファに掛けて湖山から少し間を空けて座った。長い足がローテーブルに当たっている。大沢を見上げることができないけれど、彼がシャツの胸元を摘んで扇いでいるので、湖山は「暑い?」とつとめて平静を装いながら立ち上がると、キッチンへ向かった。
 「水がいい?ビールがいい?」
 キッチンからやっと大沢を振り返ると大沢は湖山を見ていて、目が合うと少し笑って「水ー」と答えた。冷蔵庫から冷えた水のボトルを出して、果たしていつもグラスを一緒に出していたっけ?と些細な事が気になってしまう。少し考えてボトルをもう一本、グラスを二つ持ってリビングへ戻った。そっとテーブルに置いて横に座ると、意識せず湖山は正座をしていたらしかった。
 「ちょーっと!なんで正座?」
 と大沢が大きな声で笑って言った。大沢のその様子に少し緊張が解れる。
 「な、なんか。」
 「緊張してるの?」
 「し、しねーの?余裕なの?」
 何だよ、と大沢を睨むと、大沢は笑顔を引っ込ませながら泣きそうな顔になった。
 「するよ。するに、決まってんじゃん…」
 そういうと、大沢は湖山の手をとって胸にあてた。大沢の鼓動が伝わる。どっくん、どっくんと鳴っている彼の鼓動は、湖山が思う彼の生き方そのもののように力強くまっすぐに湖山の手に伝わった。
 
 
< 4 / 5 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop