結婚したいから!
粉砕された魂に救済の手を

最後のプライベートな恋

「わ、わかった。うまくいってるってことが、よくわかったから。また機会があったら連絡ちょうだいね」

そんなふうに、わたしの話を遮って、あわてて電話を切った彼女に、一月もしない内に連絡することになるなんて―――。
久しぶりに、彼女のくれた名刺を取り出す。大体、これを捨てずに持っていたのがいけない。わたしの自信のなさを今更ながら、自覚してしまってため息。

萩原コンサルティングサービス
主任  石原 理央

薄い水色をしたこのカードに印刷された番号には、もう用事なんてないつもりだったのに。

呼び出し音を聞いている間、襟足が見えるくらい短い髪をなびかせて、彼女が小走りでやって来る様子が目に浮かぶ。

理央さんは、いつ会っても生き生きしてる。丸い目はキラキラしていて、窮屈なはずのスーツに包まれた細い手足はのびのび動く。

「仕事が楽しい」って、顔に書いてある。だから、いつわたしが連絡しても、楽しそう。

「はい!石原です。海空(みく)ちゃん?」

弾んだような声。

そんな理央さんには悪意なんてあるはずないのに、なんだか楽しそうだな、なんてひがんでしまう。

…それにしても、事務所にかけたのに、「もしもし」って言っただけでわたしだってわかるのかな?

「はい…。もしかして、わたしが電話してくること、予想してました?」

被害妄想もいいところだと思いつつもそう言うと、電話の向こうで広がる沈黙に、どうやらこれは妄想でもなかったらしいと、もうがっくりするしかなかった。

 わたしの気持ちが伝わったのか、あわてたように、理央さんが言う。 

「と、いうよりは、海空ちゃんからの電話を待ってたの!」「え?わたしに、何か用事があったんですか?」

「あ、いや、電話だと伝えにくい内容なんだよね。また都合のいいときに、事務所に来てくれると嬉しい」

なんだかいつになく、もったいぶる理央さんに、少し疑問を持ちつつ、電話を切ったのだった。

あれ?わたし、一言も自分の要件を言えなかった。

やっぱり、鈍臭いなぁ。

人にもよく言われることだ。鈍臭い、のろい、とろい、ぼけっとしてる、…などなど。自分でもときどき、こうして自覚する。

それにしても、萩原コンサルティングサービスの事務所に、また行かなきゃいけない。いや、どうせ自分から出向くことになったのだろうけど。

ほんの少し前、理央さんから電話をもらった時には、こんなこともうないと思っていたのに。思っていた、というよりは、信じていた、といった方が近いのかもしれない。

先月、理央さんから電話をもらった時には、彼と一緒にいた。いや、もう元彼だ。自力で見つけた人だった。って言っても、合コンで知り合ったんだけど。

「最近、声聞いてないけど、どうしてる?」

なんて、友達みたいに営業電話をくれた理央さんに、「彼氏と一緒にいるの!」なんて、うきうきしながら話したのが馬鹿みたい。

いや、本当に、あの時のわたしって、馬鹿だったんだ。

理央さんからの電話にためらいもなくすぐ出られたのは、彼がその場にいなかったから。

仕事の取引先からだって言って、鳴り続ける携帯を持って、彼が隣の部屋に籠っていたときだった。

あれって、今思うと、女の人からだったんだ。

「やっぱり、わたしって、鈍い」

痛い独り言に、自分で傷つきながら、私は慣れ親しんだベッドの枕に顔をうずめた。ここに、わたし、こうしてひとりで暮らすようになって、5年経つ。

いつまでこうして、冷たいシーツに肌の熱がなじむのを、1時間も待つ毎日を過ごせばいいのだろう。寝つきが悪いのは、わたしの体温が低いせいだけじゃない。

心の底から寂しくないと思えるようになったら、すとんと照明を落とすように、眠りに入れるんじゃないか、なんて、わたしは予想している。

子どもの頃、母親に抱かれていたときには、夜はそうやって唐突に訪れて、毎日わたしの心と体を休めてくれたのだから。

大人になった今、そこまで気を許せる人は、きっと、結婚相手しかいない、…ような気がする。

ちょっと前まで、それは元彼だと思っていた。
いや、自覚していたわけじゃないけれど、別れた後のがっくりくるこの感じからすると、頭の片隅にそんな将来を描いた絵があったように思う。元彼とは、短大時代の友人、紗彩主催の合コンで知り合った。

久しぶりの合コンの席で、ちょっと緊張していたわたしだけど、向かい側でまるで以前からの友達のようににこにこしている彼に、少しほっとしたのは、もうすでに心を開き始めていたのだろう。

お酒がすすんで、少しずつ皆が席を移動して、打ち解けていく。

気がつくと、彼はいつの間にかわたしの隣に座って、笑っていた。

たぶん、こちらにばかり顔を向けて、話しかけてきていたら、わたしも警戒したと思う。
でも、そこは彼が上手で、近くの男の子と楽しそうに話しては、わたしには時折相槌を求める程度だった。

自然とほほ笑むことができる自分に気がついたら、彼が帰り際に渡してくれた連絡先のメモを受け取ることに、嫌悪感はまるでなかった。

彼の笑顔は本当に自然で、厭味がない。
どうやらわたしが思っていたより、女の人の扱いに長けていたことは予想外だったけれど、それを知った今でも、彼の笑顔は本物だったように思える。

その表情を見ていられるなら、わたしもいつも肩の力を抜いて、自分らしく生きていけるような気がしていた。

そんな他力本願な、わたしがいけなかったのかな。

くつろいでいたわたしに、危機感がないのが伝わったのかな。

結婚したいなんて、思っていること、彼にばれてたのかな。

…、あ、まただ。
こうして原因らしきものを探るのが、ここしばらくは、すっかり癖になっている。

オーストラリアでは、別れた相手に、その原因を尋ねる、なんてことを代行してくれる会社があるらしい。
わたしみたいな人間が、依頼するんだろうか。まあ、とにかく、たぶん元彼の笑顔には騙されたとは思わないまま、少しずつ心を開いていた。今でも、騙された気はしていない、しつこく言うけど。

翌日に、紙片にかかれていたアドレスに、名前を書いて簡単なお礼のメールを送信したときは、やっぱり緊張した。
「送信しました」というメッセージが表示された小さな画面から、元彼の笑顔を思い浮かべていたことも、よく覚えている。

ちゃんと、自分でも、惹かれていたから。
そうじゃなかったら、わざわざそんなメールを送らなかったんだろう。

元彼に流されたわけじゃなくて、わたしの意思だけで、ふたりの関係が発展した局面が、いくらでもあることにも気が付いている。

合コンの翌日に、メールを送ったことも、そう。

いつの間にか彼からのメールを待つ毎日になったころ、尋ねられてアドレスだけじゃなくて番号まで教えたことも、そう。

会いたいと言われて、仕事の帰りに、初めてふたりきりで食事をしたことも。

出張のついでに、一緒に温泉宿に立ち寄ろうと言われて、一泊したことも。
「あんたって、肌を許すとすぐに飽きられるね」

酷い、辛辣な、手痛い、無慈悲で、非情な一言を、傲慢な表情で放った紗彩に、わたしは何も言い返せなかった。

言われてみると、確かにそんな気がしてきて、気が滅入る。

小さな会社でのんびりと、事務の仕事をしているわたしではなく、出版社の営業でバリバリ働いている紗彩が忙しくて、結局別れてしまってから、彼とのことを報告しているのだ。

彼女が連れてきてくれた、細い裏通りにしか面していない小さなビルの、5階にある、なんとも不便な立地のバー。
それが、バーテンや、客も、わたしたちくらいの女性がほとんど。
インテリアも、ややしっとりと落ち着いたカフェみたい。

おのずと滑らかになっていた口が、紗彩の刺激的な指摘によって、すっかり重くなってしまって、わたしはそこに、杏の香りを模したカクテルを流し込んだ。うん。だいじょぶ。おち、おちついた。

半ば強引に、自分に言い聞かせてみる。

「じゃ、じゃあ、紗彩はどうするの?好きな人ともエッチしないの?」

お酒の勢いでも、こう訊けたのは、紗彩だからだ。他の友達だったら、心の中でつぶやいただけだったはず。

「するよ」

即答だった。

「どこがわたしと違うの?」

自然と唇がとがってしまう。

どこが、って自分で言ったけど、わたしと紗彩では何から何まで大違いだってことも思い出す。顔、スタイル、性格、学歴、職業、…とにかく全般。

「ばっか。また卑屈な考えに落ちてるでしょ」

遠慮もなく私の唇をつまんで、紗彩が華やかな笑みを咲かせる。

ああ、美人だ。同性から見たって艶っぽいし。素直にそう思って、閉じちゃおうかと思っていた耳を傾けてみる。

「タイミングよ、違うのは、そこだけ」

はあ。タイミング…。

きょとんとしていると、とうとう紗彩は声を漏らしてくっくっと笑った。

「求められたからって、すぐに寝るんじゃない」

「へっ!?」

再びの爆弾発言。誰のことを言ってるの??「えっと…。わたし、そうかな?っていうか、そんな話、紗彩としたことあったっけ?」

「ないよ。思い出そうとしたってない」

はっきり言い捨てて、心底めんどくさそうに、彼女はため息をついて、ジントニックを煽った。シンプルですがすがしいお酒は、紗彩にぴったりだと思う。

こくんと鳴る喉のわずかな動きもきれい。

「あんたは、わかりやすい。男とそういう関係になるとすぐわかる。ちょっと自信をつけた顔になるし。

でもさ、体で心は繋げないよ」

「は!?」

今日は、いったい何回被弾すればいいんだろう、わたし…。

「わ、わたし、そんなつもりない!!」

さすがにこらえきれず、そう叫んだときには、涙目だったと思う。
ぎゅっと握った拳はちょっと震えてる。

「わかってる、わかってる。はい、落ち着いて」

それでも、わたしのそんな反応は、紗彩の想定範囲内だったらしく、彼女は鬱陶しいとでもいうかのように、手をひらひら振って、もう一度ジントニックを口に含むだけだった。「いわゆる、エロい魔性の女じゃないんだよね、海空は。体で誘惑して、男をたぶらかすって悪女じゃない。

なんていうのか、自分が嫌われないために尽くしすぎる少女、っていうのが近いかな」

キラワレナイタメニツクシスギル、自分の声で繰り返してみると、非常に残念なことに、わたしにフィットする表現だった。

「付き合ってる間、これだけがんばったんだから、我慢してるんだから、わたしのことを好きでいて、って思ってない?

だから、自分の気持ちが熟する前に、相手の言うままにセックスしちゃうんだよ」

ズキッ。

「結婚したいって言ってたけど、その彼だから結婚したかったってわけじゃないでしょう。結婚したいと思ってる所に、たまたま彼が近くにいたから、候補に挙げただけでしょう」

ドキッ。

すっかり沈黙するしかなくなった。
10倍は言い返してやろうと握りしめていた拳は、自分の膝を打つだけ。

「海空は、何をそんなに焦ってるんだろうね?まだ25歳でしょ、あたしたち」

紗彩が、すでにこの話に興味を失った様子で、残りのお酒を喉に流し込み、空になったグラスを、美しい仕草でコースターに下した。

彼女らしいやり方で、わたしに「焦るな」と言ってくれたことはなんとか理解した。

それでも、そこに至るまでの指摘の数々が痛すぎて、立ち直れない。

だいたい、女の子同士で、こういう話題って、あまりしない。
わたしと紗彩だって、親友といってもいいほど親しいこの5年に及ぶ付き合いの中で、初めてじゃないだろうか。

それに思い至ると、もうちょっと勇気を出して、訊いてみた。

「紗彩は、エッチを拒んだことがあるの?」
「もちろん!」

「それで嫌われたりしないの?」
「嫌うような男、こっちから願い下げ」

はぁ…。今度は感嘆のため息が出る。

なんてすがすがしい姿勢で、恋愛をしているんだろう、紗彩は。

「わたしも、紗彩みたいに美人で、スタイルも頭もよかったら、そんなふうに自信を持って、恋ができるのかなぁ」

 ほとんど無意識にそう呟いていた。
「関係ない」

はぁ?と間抜け声で訊き返すと、さらに語気を強めて、紗彩がはっきり言う。

「見栄えや能力には関係ないでしょ。だいたい、もう付き合ってるんだから、どういう自分にしろ、相手が好意を抱いていることは確実なんだから」

「そうかな?わたし、だいたい自分ばっかり相手のことを好きな気がする。同じくらいわたしのこと、好きになってほしいな、って、いつも焦ってるし」

「もうちょっとリラックスして、厚かましく自分のことは棚に上げて、相手の気持ちを信用するところからはじめないと、また痛い恋愛するんじゃない」

相手の気持ちを信用するって、何?

ほんと、紗彩って、勉強ができるだけじゃなくて、頭がいいって思う。考えや思いをしっかり
自分の中でまとめてるし、精神的な知能指数が高い。

「とりあえず、次にいいなって思う人と出会ったら、もっと時間をかけて、打ち解けてみることを心がけて。騙されたと思って、ね」

ここまで言って、ようやく紗彩の顔は、優しげにほほ笑みを浮かべた。それなら、わかる。時間をかけて、打ち解ける、かぁ。やってみよう。

常日頃、紗彩が、あれこれ気にしてくれていたことも、よくわかった。そこが単純に嬉しくて、素直に言うことを聞き入れてみようという気になっていた。

女性ばかりの、静かで、落ち着けるお店の空気のおかげか、こうして話ができたこと、最後には感謝していた。

それからは、オレンジ色の暖かな、でも照度の低い、このバーで、仕事や、共通の友人、家族の近況報告をし合った。
こういうつまらない話も、紗彩とするのは楽しい。彼女なりの切り口で、表現で、語られる人や物事は、わたしの目には生き生きして映る。

「とりあえずさ、萩原コンサルティングサービスの担当さんに相談してみれば」

「うん。ちょうど呼ばれてるから、今度、事務所に行ってみる」

そうして、わたしたちは、店から一番近い駅の改札で別れたのだった。「おつかれさまです。お先に失礼します」

そう言って、定時の時刻を若干過ぎてから、席を立つと、社長はちゃんと顔をあげて「海空ちゃん、おつかれさま」と言ってくれる。いつもそうだ。
そういえば、わたしは残業をしたことがない。

わたしが勤めている竹田建設株式会社は、名前は立派だけれど、社長とその奥さんが切り盛りする、小さな会社だ。

わたしも、建築に興味があったわけじゃない。
短大に入学してすぐ、アルバイトを探していたとき、アパートから近くて、簿記の資格が生かせそうだと思って気楽に応募してみたのがはじまりだ。

2年生になって、まだ就職が決まらず、焦っていた私に、社長が社員にならないかと声を掛けてくれたのだ。

間違いなく、就職戦線における不甲斐ない戦果を見かねてのことだと思う。
人のいい社長夫婦は、とくに目を引く能力があるわけではないわたしを、不憫に思ったに違いない。

それでも、ありがたかった。


迷うこともなく、社長の申し出を受けて、そのままこんな風に居座っている。

「やりがいとか、あるの?」
「もっと華やかな仕事、したくない?」
「給料安そう」

なんて、短大の仲間は言いたいことを言ってくれるけど、あまり気にしていない。

社長は生真面目で、誠実に仕事をするし、奥さんはあったかくてさばけていて、わたしにも母親面して接してくるし。わたしには居心地がいい。

なにより、仕事がないことには、ごはんだって食べられないのだから。

そんなことで、外から言われるほどの不満もなく、ここで仕事をしている。
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