伯爵令嬢は公爵様と恋をする
第1部
Vol.1



 あなたの瞳が伝えてくれる
 いつだって
 確かな愛がそこにあること







 由緒正しい貴族の身分と、それにしては庶民的で慎ましやかな生活を送ってきた我が家を突然襲ったのは、一生かかっても返せないような借金と、不可解な父の自殺という二重の衝撃だった。
 夢にも思わなかった事態に悲嘆に暮れる母は体調を崩し、父の葬儀を終える前に後を追うようにして数日後に息を引き取ってしまった。
 残されているのは代々守ってきた身分と館、ほんの少しの領地。
 けれどそれももうじき人手に渡る。
 生まれ育った家も、そこに刻まれた思い出も、私たちを支えてきてくれて家族同様に過ごしてきた執事のクラウスも、メイドのゲルタも、庭師兼家畜係のハインツも、次の奉公先が決まっている。
 そして私も、借金を帳消しにするため、アウラー男爵に嫁ぐことが決まった。
 より高い身分を欲しがる野心家の男爵らしい取引だ。
 恐らくは父も彼の罠にはめられたに違いない。
 屋敷ごと私を手に入れて身分を得ようとしたのだろう。
 アウラー男爵の黒い噂は社交界でも実しやかに流れている。
 これ見よがしに周囲に派手で香水くさい女性を何人も侍らせ、見せつけるように大金をばらまき、犯罪まがいの手段も辞さない極悪人だと。
 そんな人物と父がどう関係を持ったのか分からない。
 けれど。
 私の力で彼が父を貶めたという証拠を探すのは、砂漠から爪の先ほどの金を探すことより困難な事だった。
 女なんて無力だ。
 自分の不甲斐無さをこんなにも恨んだことはない。
 父の汚名を晴らすこともできなければ、自分の身を守る事さえもできない。
 あんな男に好き放題されるくらいなら今ここで命を絶つ方がずっとマシだ。
 でもそれは出来ない事だった。
 クラウスもゲルタもハインツも、何とかして私を守ろうと奔走してくれた。
 母は父の無念を晴らしたいと泣きながら亡くなっていった。
 それならば、一つだけ。
 事件の真相を暴き、両親の無念を晴らすこと。
 だから決意した。

 復讐のために、全てを捧げよう。と。






 いくらなんでも喪が明けないうちに式を挙げる気になんてなれなかった。
 あの男は金と欲にまみれたいやらしい笑みで
「借金も帳消しになる上、この館にも住み続けられる。これほどの幸運がおありか?」
 と言ってきた。
 ハイエナのように意地汚い獣のような目で、舐めまわすようにこちらを見てくる。
 吐き気を覚えるようなあの男に、私は一度も目を合わせなかった。
 狩りを好み、一見するとその逞しさやプレイボーイ然とした女性の扱いから、彼の虜になる女性は少なくない。
 けれどその面の下にはどんなどす黒い本性が隠されていることか。
 一秒たりとも同じ空間に長居したくない。
 嫌悪感ばかりがこみ上げ、息苦しくなってくる。
「申し訳ありませんが、体調がすぐれません。今日はどうかお引き取りを」
 ともすれば叫びあげたくなる気持ちをどうにか抑え込み、静かな声でそう告げた。
 彼は訳知り顔で立ち上がる。
「そうですか、それは心配だ。私の妻になる可愛い人、どうかゆっくり休んで早く元気な姿を見せてくださいね。それでは」
 紳士的な態度を装いながら、厭らしい視線を向ける。
「エルフリーデ」
 不意に彼の手が頬に伸び、顎を持ち上げてきた。
「ッ」
 思わず咄嗟に顔をそむけて体を引いてしまう。
 黒ずんだ唇が歪んだ。
「おやおや、私の妻は本当に初々しいな。初夜が楽しみだ」
 恥ずかしげもなくそんな言葉を残して、あの男は背を向けた。
「おかしなことをおっしゃいますね。あなたのお好みは極楽鳥のように着飾った美しい女性では?」
「はは、確かに美しいものは大好きだが…あなたのように眼鏡をかけた賢い女性も大変興味深い。若さはそんなもので隠せるものでもないでしょう。あなたがどうであっても私の手からは逃げられない」
 バタン
 扉の閉まる音が重く響き渡る。
 まるで死刑宣告を告げられたように、絶望感だけが広がった。
 触れられるだけで虫唾の走る相手に抱かれるなんて。
 考えただけで気が狂ってしまいそう。
 お父様、お母様…どうか天国から私をお守りください。
 必ずお二人の無念を晴らします。
 お二人が守ってきたこの場所も必ず守り続けます。
 だからどうか…どうか神様…ご加護を…。
 両手を固く握り合わせて祈りをささげる。
 黒い喪服のドレスはまるで死装束。
 ふらふらとした足取りで庭に出れば、そこには綺麗に円を描いた月が浮かんでいた。
 ハインツが丹精込めて作ったバラの垣根が、鮮やかに彩られている。
 母が喜ぶからと、父があちこちへ出向いて手に入れた種が、見事に芽吹いて花開いたのだ。
 毎日花を摘んでは幸せそうに微笑む母がいた。
 そんな母を見て顔を綻ばせる父がいた。
 二人を温かく見守るみんながいて、私はなんて幸せなんだろうといつも思っていた。
 それなのに。
 今は全てが両手から零れ落ちていく。
 あっけないほど簡単に、脆く崩れた砂の城のように。
 見上げた月が歪んでいく。
 優しいほど穏やかに輝く光が、痛いくらい胸に突き刺さる。
 こんな夜空を後何度見られるのだろう。
 明日にも姿を変えてしまう月でさえこんなに美しく輝くのに。
 とめどなく溢れ出す涙は止まることを知らないらしい。
 邪魔になってしまう眼鏡をそっと外してしまえば、もう月の輪郭さえぼやけてしまった。
 そうだ。
 こんな風に全てがぼやけてしまえばいい。
 鮮明すぎる風景など、絶望だけの鋭い現実を突きつけるだけだから。
 夢見ていたのはこんな未来なんかじゃない。
 自分も両親のように互いを想い合い、尊敬しあって支え合える家族を作るのだと思っていた。
 過ぎた贅沢などいらないから、本当に愛する人とおとぎ話のような幸せな結婚をするのだと…幼心に夢見ていたのだ。
 それもこれも全て、叶わぬ夢。
 あと数日で私は…。
 そう、全てを諦め、心を閉じようとした時だった。

 カサリ
 微かな足音が聞こえた。
 地面に黒い影が伸びて、月光が遮られる。
 …誰…?
 涙でひどいことになっているにも拘らず、私は顔を上げる。
「迎えに来た」
 感情の読めない平坦な硬い声。
 逆光で顔が見えない。
「あなたは?」
「アウラー男爵と結婚したいならここに残ればいい」
「え?」
「それが嫌なら私とともに来い」
「でも」
「共に来るなら貴女の全てを救おう」
「…本当に?」
 顔も見えない。
 名前も知らない。
 見ず知らずの人。
 冷たくすら聞こえる声だけは、何故かどこかで聞いたことがあるような気がしたけれど、多分気のせいだろう。
 敵か味方かも分からない。
 騙されるかもしれない。
 一度暗闇に覆われた未来は、誰の手に委ねられようと変わらず暗いままかもしれない。
 アウラー男爵に嫁ぐよりひどいことになるかもしれない。
 どれほど彼の言葉が信じられるか、根拠も確証もなかった。
 けれど。
「…私を、連れて行って…」
 驚くほど簡単に、私は差し出された彼の大きな手に、この手を重ねた。






 続く
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