若と千代と通訳
無口なおみ


彼とは居酒屋で再会した。
私がアルバイトで彼が客。
彼は焼酎水割りと、連れは冷酒を頼んだ。つまみは焼き鳥と塩揉みしそきゅうり。
眼つきがとにかく悪かった。
彼は常連さんになった。
常連になっても眼つきは怖いままだった。
しかも彼が喋ってるとこ、私、聞いたことないや。



日本の某県某市の繁華街。そこに昭和から軒を並べる居酒屋ごんぶとは、今日も仕事帰りのサラリーマンで賑わっていた。両隣がフィリピンパブと高級クラブということもあり、たまに亜熱帯に生息する爬虫類のようなドレスを着た女性を連れての来店もある。
ガラララッ。
古いが滑りはいい戸が、勢いよく開かれた。
いらっしゃいませーと出迎える声数名。
大将、女将さんの他に、バイトが二人。特に今日は花の金曜日なので、あとからヘルプが一人くる。カウンター席が七席と座敷がみっつ。意外と店内は広い。
「志摩さん、お疲れ様です」
入り口から入ってきたロマンスグレーの男性に挨拶する。細身で長身、光沢を抑えた黒のスーツに、藤色のネクタイを締めた姿がなんとも色っぽくて、それなりの歳だというのに人の目をよく引く。
「お疲れさんです、千代さん」
にっこりと微笑むと、目尻に穏やかな笑い皺ができる。
微笑まれた千代は、いつものように笑い返してから志摩の後ろを見た。
「臣さんもいらっしゃい」
顔は見えない。丁度鼻の付け根を境に鴨居で分断されているからだ。
下手すれば細身の志摩の二倍くらいはありそうな巨体が、ゆっくりと、でも緩慢ではない動きで鴨居を潜る。
そして鴨居の下から現れた鋭すぎる眼光に、店内のざわめきが一瞬とまった。
熊のような狼のような、学のない千代には、彼を一言で表す言葉が見つからない。
太く黒い髪は今日も一分の隙もなくオールバックにされ、店内の埃を被った蛍光灯に反射して艶々している。顔は、怖い。とにかく怖い。太い眉も切れ長の眼も、いつも一文字に閉じられた唇も、なにもかもが怖い。しかも左の眉尻に傷がある。やっぱりこわい。
臣は千代に一瞥をくれると、すぐに視線を逸らして奥の座敷を目指した。そんな臣を見て、志摩が苦笑めいた笑みを浮かべる。
「いつものやつお願いします」
はーい。
このふたりが来店したら、千代はこのふたり専用になる。とはいっても、勿論他の客の接客もする。ただ、他のアルバイトはこのふたりには近寄らない。このふたりの注文も配膳も、何故か千代ひとりですることになる。ちゃんと理由を聞いたことはないが、恐らくは臣の身体的特徴が原因かと思われる。
前述したが、要するにめっちゃこわいからである。
190センチあるらしい身長に、超絶無口(接客を担当する千代ですら、声を聞いたことがないくらい)、子供が左右に乗ってもまだあまりそうな広い肩幅、いつもお通夜のような真っ黒なスーツ。年齢不詳、いつも志摩さんと一緒。
一度、座敷がいっぱいでカウンターに案内したら、椅子があまりにも小さすぎて小人の家に巨人が招待されたような状態になってしまった。しかもそれを正面に調理しなきゃならない大将が爆笑してプルプルして料理が出来上がるまでに時間がかかるという問題も起きて、座敷が空いているときは必ずそちらに通すようにした。
千代的にそのシーンは思い出し笑いランキング上位に入ってしてしまうくらい可愛い光景だったのだが、他のアルバイトの女子大生達は違ったらしい。ちょうこわい、やばい、ぜったいむり、だそうだ。
(まあ私も、臣さんのあんなところ見てなかったら怖がってたかもしれないな)
千代は焼酎水割りと冷酒を用意して、座敷に入った。
「今日も寒いですね。ふたりともコート着てなくて大丈夫ですか?」
十月の終わりにさしかかったが、もう随分と冷える。夏は猛暑だ残暑だと騒いでいた気がするのに、残暑どこいったというくらい、寒い。今年は雪が深いかもしれない。
「外に車を待たせてあるので」
志摩が穏やかに言う。
そうなんだ、となんとはなしに臣を見たが、一瞬視線がかち合ってまたすぐ逸らされた。
うーん、彼らを知り合ったのは夏になる前だが、未だに慣れてもらえないらしい。
志摩曰く、生来の無口、らしいので、もしかしたら誰にでもそうなのかもしれない。
どうしても彼に問わなくてはならないことや、答えてもらいたいことには、何故か志摩が代わりに答えてくれる。志摩さんは臣さんのことをなんでも知っているらしい。
「今日はなんにします?」
「この甘辛煮豚と出し巻き卵、大根おろしもお願いできるかな。あと焼き鳥と……」
「塩揉みしそきゅうり、と」
志摩の言葉を引き継いで注文書に書き込むと、にっこりと微笑まれた。
ボルサリーノの中折れ帽がこんなに似合う人もいないのではないか、というような紳士的な微笑。相変わらず素敵だ。
「臣さんは?」
絶対に話すわけないけど、志摩さんから注文を取ったら必ず臣にも聞くようにしている。
そして、毎度同じ答えが返ってくる。
「彼も私と同じで」
ほらね。
注文をとってカウンターに渡す。と、つるっぱげに捻り鉢巻を巻いた典型的な大将・桂が野菜炒めから顔を上げた。
「おう千代、あの口なし坊ちゃんに持ってけ」
他のお客さんに出しているものとは違う、妙にきらきらごつごつした灰皿を渡された。
ああはいはい、ヘビースモーカーですもんね。
でも、吸わなかったりする日もある。一度先回りして持っていったら、一本も吸わなかった時があった。あの時は余計なことやらかしたと猛省したのだが、何故か次来たときは普通に吸ってた。山盛り。なんでや。
(私じゃなくて大将が灰皿渡したから?よくわからないな)
「臣さん、灰皿」
千代が言うと、焼酎片手に臣が顔を上げた。
この居酒屋内限定とはいえ、付き合いは長い。喋らなくても、視線で礼を言われているのはわかるようになった。ちょっと砕けた話し方もできるようになった。
「ありがとうございます」
そして口では志摩が代わりに言う。まあ志摩も相当なヘビースモーカーだ。
臣はセブンスター、志摩はピース。セブンスターは、千代の祖父も吸っていた銘柄だ。吸いすぎて肺がんになって千代が高校生の時亡くなった。妙に顔が効くじいさんだった。
実は、このじいさんの葬式に臣は弔問していた。一体どういう関係だったのか知らないが、確かに臣だった。
とはいえ、臣は多分、千代のことを覚えていない。
祖父の通夜、弔問客に黒い礼服のごつい男達が妙に多いな、と板間に座りながら、千代はぼんやりと考えていた。やかましくてがさつなじいさんだったが、粋だった。千代はそんな祖父が大好きだった。千代は母達とは離れた縁側の柱に凭れて、祖父の棺おけに背中を向けていた。罰当たりといわれてもいい。めそめそ泣いているところを、誰にも見られたくなかった。
そうしたら、一人だけ、焼香を済ませた大男が千代に向かってきた。千代が座る板間と畳の境で立ち止まり、そこに膝をつく。そして綺麗な正座をしたかと思うと、ぐっと頭を下げた。
その時の千代の心境を表すとしたら、ぽかーん、である。
顔がめちゃくちゃ怖くてがたいがいい大男に頭を下げられたのは、これが初めてだった。というか、この先の人生でもきっとこれっきりだろう。
小さな、本当に小さな声で、ご愁傷様でした、と聞こえた。
千代は慌てて体勢を整え正座し、男を真似て頭を下げた。男のように綺麗にできたか、それだけが心配だった。
男は赤くなった千代の目からぱっと視線を逸らすと、そのまま帰ってしまった。
千代はまた泣いた。
そして今年の夏前、臣を見て仰天した。
あの頃にはなかった傷が、左眉にあった。
それでも彼があの大男だと、千代は気付いた。
(あの通夜で、私に頭下げてくれたの、臣さんだけだった)
それが何故か、妙に嬉しくて、優しかった。
あの小さな囁きと、礼を尽くした姿が、大好きな祖父を亡くした傷心の千代を、確実に慰めたのだ。
「ご馳走さん」
ばたばたと店内を駆け回っているうちに、志摩と臣は食事を終えたらしい。
志摩の声にテーブルを拭きながら顔を上げれば、既に会計を済ませた志摩と臣が戸を開けてこちらを振り向いているところだった。
「ありがとうございます。またお越しください」
千代が笑うと、志摩が答えるように口許に笑みを刷く。
臣は視線も合わせず、ふいと外へ出て行ってしまった。



「若、今日もだめでしたね」
志摩が外に待たせていた車のドアを開けて、そう言った。
「……」
臣は無言で後部座席に乗り込んだ。運転席の海江田がちらりと視線を寄越す。
志摩が乗ったのを確認して、黒のレクサスは滑るように走り出した。
車内は相変わらず無言だった。
が、臣は志摩から妙なプレッシャーでも受けているかのように苛立たしげに煙草に火を付けた。志摩は笑顔である。
「簡単だと思いますけどねえ。千代嬢に一言でいいから言やあいいんじゃないですか?」
その言葉にも、やはり臣は無言だった。
志摩は続ける。
「お前に今すぐぶちこんで孕ませたいくらい好きだって」
そこで運転手の海江田がぶほおっと吹き出した。
臣は火のついた煙草を無言で握りつぶすと、隣のロマンスグレーに裏拳をきめた。

もうすぐ十月。
きっともっと寒くなる。

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