七夕の出逢い
【Side 涼】
01話 女との出逢い
彼女と出逢うまで、なんら変わらない日々を過ごしていくと――そう思っていた。
七月七日。自分は学会に出席するため休みをもらっていた。それにも関わらず職場に立ち寄ったのは、術後の容態が安定しない患者がいたからだ。
藤宮病院消化器内科勤務の医師、芹沢涼(せりざわりょう)、それが自分を表す固有名詞。
患者を診察し、これなら問題ないだろうと病棟をあとにすると厄介なのに出くわした。
消化器内科長の藤原忠(ふじわらただし)。この春から何度となく縁談を勧めてくる。
俺に気づくと、金魚の糞を数人連れてやってきた。
俺は仕方なく足を止め、廊下の端に身を寄せる。
「おや、芹沢くんじゃないか。今日は学会だろう?」
「はい。気になる患者がいましたので、学会の前に少し立ち寄りました」
「はっはっはっ。相変わらず真面目な男だな」
わざとらしく豪快に笑うその様が、下品に見えることをこの男は知らない。むしろ、声と態度の大きさが権力を誇示するものだと勘違いしているに違いない。
曲がりなりにも医者だろうに、ここが病棟であることを忘れてるんじゃないだろうか。
うんざりしつつも受け答えだけはする。
「いえ、気になって学会に身が入らないよりはいいかと思いまして」
「いやいや、君には期待してるんだよ! そこでなんだが、総合診療部長が君との席を設けたいと仰られてね」
……総合診療部長とは、また厄介な狸が出てきたものだ。
「今回ばかりは断れまいよ。断れば君の出世は断たれたも同然。まぁ、よく考えるんだな。なぁに、悪い話しじゃないさ」
にやり、と下卑た笑いを残し去っていった。
科長の後ろに続くひとりが振り返り、俺を睨んでは小さく舌打ちをする。
俺は気にせず背を向け歩き出した。
……俺を金魚の糞と一緒にしてくれるな。出世など、ここではあってないようなものだろう? そんなものは欲しい人間にくれてやる。
実のない人間がトップにつけばどうなるかは目に見えている。従順なふりをした優秀な部下にいいように使われ、使われていることに気づきもせず陰で嘲笑されるがいい……。
自分は医者になりたかっただけで、医者として働けるならどこの病院でも構わない。この病院に固執する理由などひとつもない。
休日なのに面倒な人間に出くわし、くだらない話をしたと思った。
そのまま歩みを進め外来のある一階に下りると、少し先を歩く人間が不振な動きをする。立ち止まったかと思うと壁に手を伸ばし、そのまましゃがみこんだ。
見るからに華奢で、髪の長い女だった。
「大丈夫ですか?」
女は血の気が失せ、額に汗をかいていた。唇には薄く紅がひかれていたが、そのベールがなくなれば血色のないそれとなるのだろう。
「真っ青ですね? 今日はどこの科に受診を……?」
間違いなく患者だと判断した自分は医者として当然の質問をしたつもりだが、顔を上げた女はこの状況には不釣合いなほど不思議そうな表情をしている。
何か話すまで待ってみたが、女は口を開く素振りもなく、ただじっと自分に視線を向け続けた。
耳に補聴器はついていない。咄嗟に手話が出るわけでもない。聾唖者ではないだろう。
仕方なく、
「どちらの科に受診ですか?」
再度自分から声をかけると、パチパチと緩く二度瞬きをして、
「内科、です」
と、一言で話せる内容を区切って話した。
地に足がついていないような、浮遊感を覚える声だった。けれど、発音は健常者のものと変わらないしっかりとした声。
内科ならこの渡り廊下を渡って右に折れたところにある。
「すぐそこですね。立てますか? 立てないようでしたら車椅子を持ってこさせますが」
「い、いえっ……あの……ひとりで行けますからっ」
慌てて答えたものの、その女に立つ様子はなく、今もずっと俺の目を見ている。
こんなにふうに見られることはめったにない。見られること自体が珍しいわけではなく、目を合わせたまま、次の動作がないことが珍しいと思った。
たいていの女は目が合ったあとに逸らす。もしくは、意味深な笑みを浮かべ、目が合ったことを合図のように近寄ってきては何かしらに誘ってくることが多い。
しかし今、目の前にいる女はそのどれにも当てはまらない。
「……そうですか? その割に、立ち上がる気配がないのですが」
女にされるように自分もその目を覗き込んだ。次の瞬間――
「真白様っ!?」
外来勤務の看護師が血相を変えて走って来た。
「マシロ様……?」
聞いたことのある名前だった。
……さて、どこで聞いた名だったか――
どうでもいい情報は右から左へと抜けていく。その都合のいい頭に困ることがあろうとは思いもしなかった。
人物を特定できない俺を察したのか、看護師が慌てて補足情報をもたらした。
「芹沢先生、この方は紫先生の……」
そこまで言われれば十分。
「あぁ、妹さん」
思い出した。藤宮グループ会長の愛娘、藤宮真白(ふじみやましろ)。
だから「マシロ様」なのか……。
女に視線を戻すと、先ほどとは様子が違っていた。
より具合が悪くなったというよりは、何かに落胆したような――諦めたような、そんな表情。
「ちょっとそこのあなたっ! 車椅子っ」
看護師が警備員に声をかけ、きびきびと「真白様」を「お連れ」する準備を始める。一方、女は唇を強く噛み締め俯いた。
「どうして言わないのですか? 私に言ったときのように……」
ふと口をついた問い。
「え……?」
一度ならず二度までも、ふわりと柔らかな声を発する。声に芯がない。
……芯がないのは声だけではなく、意思もなのか――?
そう思うと少しイラついた。
穢れも何も知らないようなその目に高さを合わせ、さらにたずねる。
「ご自分で歩いて行かれたいのでは?」
それは自分の憶測。それどころか、何も答えられないだろうと高を括っていた。――が、女は覚束ない口調で申し出る。
「あ、あのっ……お手を、お貸しいただけないでしょうか?」
遠慮がち、というよりは遠慮以外の音を含まない声。眉を中央に寄せ、懇願するかのような言葉。
自信もなど一欠けらも持ちあわせてはいない――そんな響きだった。
自分の足で歩いて行きたいのではないか、という質問に対し、適切な答えを返されたわけではないが、この申し出こそがその答えなのだろう。
「えぇ、いいですよ」
間を空けずに答えた理由は単純そのもの。誰にでもある好奇心。
藤宮財閥の令嬢ともあろう女が、どうしてこんなにも自信なさげなのか。ほかの一族の人間はどれをとっても傲慢不遜で、人が平伏すのが当たり前だと思っている節がある。
先刻、そんな輩と鉢合わせたばかりだったからか、突如目の前に現れた女に興味を持った。
――本当のところはそんなに深く考えていたわけではないかもしれない。
ただ、自分の足で立ち上がりたいという意思を尊重した。それだけだったかもしれない。
看護師は不服そうだったがそのまま下がらせ、代わりに自分が内科までの道のりを付き添う。
手、というよりは腕から手首の辺りを掴み支えていたが、手先でもないに関わらず、冷たい身体をしていた。
そして、左手は自分が見つけたときからずっと腹部を押さえている。
「お腹を押さえていますが、お腹が痛むのですか?」
訊けば、わずかに笑みを添えて答える。
「……はい。ここのところ食欲もなくて……たぶん、胃酸過多になっているのだと思います」
口調はゆっくりだが、淀みなく答える。
こういった症状には慣れているのだろう。そんな答えぶりだった。
だが、医者に言わせれば安易な判断はするな、だ。
「そういうのは安易に考えないほうがいい」
またしても不思議そうな顔を向けられる。
あぁ、そうか……自分は白衣を着ているだけで、まだ何も名乗ってはいない。
こんな顔を向けられても仕方ないだろう。
消化器内科の医師であることを告げようとしたとき、抑え気味だが明らかに心配の色の濃い声が割り込んだ。
「真白っ」
すぐに女が反応する。
「お兄様……」
「看護師から倒れてるって聞いてびっくりしたんだが……」
藤宮紫(ふじみやゆかり)、循環器内科の若きエリート。この病院に何十人といる藤宮一族の中では唯一まともな存在。まともすぎるがゆえに、異質ですらある。
現会長である藤宮元(ふじみやはじめ)の長男だが、金儲けや出世には興味がないらしい。人柄もよく、患者からの信頼も厚い。親や一族を笠に着ることなく、先輩医師にも新米医師にも好かれている。
そして何よりも、腕がいい。
「芹沢先生、妹がお世話になったようですね」
「いえ、そこを通りかかっただけのことです」
だいたいにして、「倒れてる」は言い過ぎだろう。少し蹲っていた程度で、意識もあれば、質問に答えることもできた。
正確な状況を伝えることもできない看護師を疎ましく思う。
何気なく隣を見れば、女は先ほどと同じように下唇を噛んでいた。
「……妹さん、お腹が痛いそうですが?」
「あぁ……胃じゃないかな? 先月は相当な件数、見合いがあったみたいだし。昨夜も今朝も、何も食べられてなかっただろう?」
女は言葉なく頷く。
なるほど……。この医師がそう言うのなら、その線は濃厚なのだろう。
「藤宮」自体に興味はない。が、この女には少し興味が湧いた。
なんでも持っていそうなのに、肝心な「自信」を持ち合わせていない女。つまらない人間とも思えるが、その唇に秘める思いをどう処理していくのかに興味がある。
「自分、消化器内科の医師なのですが……」
気づけば、自分が診察をするとでも言うように話しだしていた。
「あぁ、そういえば……ちょうどいい。いつもの検査が終わったら彼に診てもらったらどうだ?」
今度も女は言葉を口にすることなく、ただ困惑した顔で兄を見つめる。それはどこか非難めいた表情にも見えた。
さすがにそこらの看護師と兄は違うか……?
表情が、さっきよりも豊かに見える。「豊か」というにはまだ片手に足る程度の表情しか見ていないが……。
この女は心から笑うことがあるんだろうか、となぜか自分はそんなことを考えていた。
「どうかなさいましたか?」
笑顔を添えて問いかけると、女は蒼白な肌をわずかに上気させる。
「いえっ」
答えるものの、兄を見る目つきは「非難」から「助けを請う」ものへと変わり、さらには必死な形相が加わる。
しかし、藤宮医師は妹の懇願には気づかなかったらしい。
「彼は胃カメラの腕がいいと評判の医師だよ」
そう言ってにこやかに笑った。
残念ながらあなたの悲痛な思いは届きそうにありませんよ?
そんな意味をこめ、女に追い討ちをかける。
「昨夜から何も食べてらっしゃらないのでしたら、すぐに検査ができますね」
「あぁ、そうだな……。ところで、芹沢先生は今の時間は?」
「今日は午後から学会があるので、勤務からは外してもらってます」
「なら診てやってもらえませんか?」
「私でよろしければ」
検査を受ける本人の意思を無視した会話が続いた。
藤宮医師が女に向き直ると、
「お兄様っ」
女は縋るような目で兄を見る。
「真白、胃カメラが嫌いなのはわかるが、今回は兄命令だ」
くっ、と喉の奥の笑いを堪える。
藤宮医師、違いますよ。妹君は胃カメラよりもこの状況に困惑しているのでしょう。
それでも俺は、気づかぬ振りをして女に言う。
「おや……渋い顔をしてるのはそういう理由でしたか」
困り果てた女は、どうやら俺の顔に弱いらしい。それに気づきつつも、俺は女ににこりと笑みを向けた。
七月七日。自分は学会に出席するため休みをもらっていた。それにも関わらず職場に立ち寄ったのは、術後の容態が安定しない患者がいたからだ。
藤宮病院消化器内科勤務の医師、芹沢涼(せりざわりょう)、それが自分を表す固有名詞。
患者を診察し、これなら問題ないだろうと病棟をあとにすると厄介なのに出くわした。
消化器内科長の藤原忠(ふじわらただし)。この春から何度となく縁談を勧めてくる。
俺に気づくと、金魚の糞を数人連れてやってきた。
俺は仕方なく足を止め、廊下の端に身を寄せる。
「おや、芹沢くんじゃないか。今日は学会だろう?」
「はい。気になる患者がいましたので、学会の前に少し立ち寄りました」
「はっはっはっ。相変わらず真面目な男だな」
わざとらしく豪快に笑うその様が、下品に見えることをこの男は知らない。むしろ、声と態度の大きさが権力を誇示するものだと勘違いしているに違いない。
曲がりなりにも医者だろうに、ここが病棟であることを忘れてるんじゃないだろうか。
うんざりしつつも受け答えだけはする。
「いえ、気になって学会に身が入らないよりはいいかと思いまして」
「いやいや、君には期待してるんだよ! そこでなんだが、総合診療部長が君との席を設けたいと仰られてね」
……総合診療部長とは、また厄介な狸が出てきたものだ。
「今回ばかりは断れまいよ。断れば君の出世は断たれたも同然。まぁ、よく考えるんだな。なぁに、悪い話しじゃないさ」
にやり、と下卑た笑いを残し去っていった。
科長の後ろに続くひとりが振り返り、俺を睨んでは小さく舌打ちをする。
俺は気にせず背を向け歩き出した。
……俺を金魚の糞と一緒にしてくれるな。出世など、ここではあってないようなものだろう? そんなものは欲しい人間にくれてやる。
実のない人間がトップにつけばどうなるかは目に見えている。従順なふりをした優秀な部下にいいように使われ、使われていることに気づきもせず陰で嘲笑されるがいい……。
自分は医者になりたかっただけで、医者として働けるならどこの病院でも構わない。この病院に固執する理由などひとつもない。
休日なのに面倒な人間に出くわし、くだらない話をしたと思った。
そのまま歩みを進め外来のある一階に下りると、少し先を歩く人間が不振な動きをする。立ち止まったかと思うと壁に手を伸ばし、そのまましゃがみこんだ。
見るからに華奢で、髪の長い女だった。
「大丈夫ですか?」
女は血の気が失せ、額に汗をかいていた。唇には薄く紅がひかれていたが、そのベールがなくなれば血色のないそれとなるのだろう。
「真っ青ですね? 今日はどこの科に受診を……?」
間違いなく患者だと判断した自分は医者として当然の質問をしたつもりだが、顔を上げた女はこの状況には不釣合いなほど不思議そうな表情をしている。
何か話すまで待ってみたが、女は口を開く素振りもなく、ただじっと自分に視線を向け続けた。
耳に補聴器はついていない。咄嗟に手話が出るわけでもない。聾唖者ではないだろう。
仕方なく、
「どちらの科に受診ですか?」
再度自分から声をかけると、パチパチと緩く二度瞬きをして、
「内科、です」
と、一言で話せる内容を区切って話した。
地に足がついていないような、浮遊感を覚える声だった。けれど、発音は健常者のものと変わらないしっかりとした声。
内科ならこの渡り廊下を渡って右に折れたところにある。
「すぐそこですね。立てますか? 立てないようでしたら車椅子を持ってこさせますが」
「い、いえっ……あの……ひとりで行けますからっ」
慌てて答えたものの、その女に立つ様子はなく、今もずっと俺の目を見ている。
こんなにふうに見られることはめったにない。見られること自体が珍しいわけではなく、目を合わせたまま、次の動作がないことが珍しいと思った。
たいていの女は目が合ったあとに逸らす。もしくは、意味深な笑みを浮かべ、目が合ったことを合図のように近寄ってきては何かしらに誘ってくることが多い。
しかし今、目の前にいる女はそのどれにも当てはまらない。
「……そうですか? その割に、立ち上がる気配がないのですが」
女にされるように自分もその目を覗き込んだ。次の瞬間――
「真白様っ!?」
外来勤務の看護師が血相を変えて走って来た。
「マシロ様……?」
聞いたことのある名前だった。
……さて、どこで聞いた名だったか――
どうでもいい情報は右から左へと抜けていく。その都合のいい頭に困ることがあろうとは思いもしなかった。
人物を特定できない俺を察したのか、看護師が慌てて補足情報をもたらした。
「芹沢先生、この方は紫先生の……」
そこまで言われれば十分。
「あぁ、妹さん」
思い出した。藤宮グループ会長の愛娘、藤宮真白(ふじみやましろ)。
だから「マシロ様」なのか……。
女に視線を戻すと、先ほどとは様子が違っていた。
より具合が悪くなったというよりは、何かに落胆したような――諦めたような、そんな表情。
「ちょっとそこのあなたっ! 車椅子っ」
看護師が警備員に声をかけ、きびきびと「真白様」を「お連れ」する準備を始める。一方、女は唇を強く噛み締め俯いた。
「どうして言わないのですか? 私に言ったときのように……」
ふと口をついた問い。
「え……?」
一度ならず二度までも、ふわりと柔らかな声を発する。声に芯がない。
……芯がないのは声だけではなく、意思もなのか――?
そう思うと少しイラついた。
穢れも何も知らないようなその目に高さを合わせ、さらにたずねる。
「ご自分で歩いて行かれたいのでは?」
それは自分の憶測。それどころか、何も答えられないだろうと高を括っていた。――が、女は覚束ない口調で申し出る。
「あ、あのっ……お手を、お貸しいただけないでしょうか?」
遠慮がち、というよりは遠慮以外の音を含まない声。眉を中央に寄せ、懇願するかのような言葉。
自信もなど一欠けらも持ちあわせてはいない――そんな響きだった。
自分の足で歩いて行きたいのではないか、という質問に対し、適切な答えを返されたわけではないが、この申し出こそがその答えなのだろう。
「えぇ、いいですよ」
間を空けずに答えた理由は単純そのもの。誰にでもある好奇心。
藤宮財閥の令嬢ともあろう女が、どうしてこんなにも自信なさげなのか。ほかの一族の人間はどれをとっても傲慢不遜で、人が平伏すのが当たり前だと思っている節がある。
先刻、そんな輩と鉢合わせたばかりだったからか、突如目の前に現れた女に興味を持った。
――本当のところはそんなに深く考えていたわけではないかもしれない。
ただ、自分の足で立ち上がりたいという意思を尊重した。それだけだったかもしれない。
看護師は不服そうだったがそのまま下がらせ、代わりに自分が内科までの道のりを付き添う。
手、というよりは腕から手首の辺りを掴み支えていたが、手先でもないに関わらず、冷たい身体をしていた。
そして、左手は自分が見つけたときからずっと腹部を押さえている。
「お腹を押さえていますが、お腹が痛むのですか?」
訊けば、わずかに笑みを添えて答える。
「……はい。ここのところ食欲もなくて……たぶん、胃酸過多になっているのだと思います」
口調はゆっくりだが、淀みなく答える。
こういった症状には慣れているのだろう。そんな答えぶりだった。
だが、医者に言わせれば安易な判断はするな、だ。
「そういうのは安易に考えないほうがいい」
またしても不思議そうな顔を向けられる。
あぁ、そうか……自分は白衣を着ているだけで、まだ何も名乗ってはいない。
こんな顔を向けられても仕方ないだろう。
消化器内科の医師であることを告げようとしたとき、抑え気味だが明らかに心配の色の濃い声が割り込んだ。
「真白っ」
すぐに女が反応する。
「お兄様……」
「看護師から倒れてるって聞いてびっくりしたんだが……」
藤宮紫(ふじみやゆかり)、循環器内科の若きエリート。この病院に何十人といる藤宮一族の中では唯一まともな存在。まともすぎるがゆえに、異質ですらある。
現会長である藤宮元(ふじみやはじめ)の長男だが、金儲けや出世には興味がないらしい。人柄もよく、患者からの信頼も厚い。親や一族を笠に着ることなく、先輩医師にも新米医師にも好かれている。
そして何よりも、腕がいい。
「芹沢先生、妹がお世話になったようですね」
「いえ、そこを通りかかっただけのことです」
だいたいにして、「倒れてる」は言い過ぎだろう。少し蹲っていた程度で、意識もあれば、質問に答えることもできた。
正確な状況を伝えることもできない看護師を疎ましく思う。
何気なく隣を見れば、女は先ほどと同じように下唇を噛んでいた。
「……妹さん、お腹が痛いそうですが?」
「あぁ……胃じゃないかな? 先月は相当な件数、見合いがあったみたいだし。昨夜も今朝も、何も食べられてなかっただろう?」
女は言葉なく頷く。
なるほど……。この医師がそう言うのなら、その線は濃厚なのだろう。
「藤宮」自体に興味はない。が、この女には少し興味が湧いた。
なんでも持っていそうなのに、肝心な「自信」を持ち合わせていない女。つまらない人間とも思えるが、その唇に秘める思いをどう処理していくのかに興味がある。
「自分、消化器内科の医師なのですが……」
気づけば、自分が診察をするとでも言うように話しだしていた。
「あぁ、そういえば……ちょうどいい。いつもの検査が終わったら彼に診てもらったらどうだ?」
今度も女は言葉を口にすることなく、ただ困惑した顔で兄を見つめる。それはどこか非難めいた表情にも見えた。
さすがにそこらの看護師と兄は違うか……?
表情が、さっきよりも豊かに見える。「豊か」というにはまだ片手に足る程度の表情しか見ていないが……。
この女は心から笑うことがあるんだろうか、となぜか自分はそんなことを考えていた。
「どうかなさいましたか?」
笑顔を添えて問いかけると、女は蒼白な肌をわずかに上気させる。
「いえっ」
答えるものの、兄を見る目つきは「非難」から「助けを請う」ものへと変わり、さらには必死な形相が加わる。
しかし、藤宮医師は妹の懇願には気づかなかったらしい。
「彼は胃カメラの腕がいいと評判の医師だよ」
そう言ってにこやかに笑った。
残念ながらあなたの悲痛な思いは届きそうにありませんよ?
そんな意味をこめ、女に追い討ちをかける。
「昨夜から何も食べてらっしゃらないのでしたら、すぐに検査ができますね」
「あぁ、そうだな……。ところで、芹沢先生は今の時間は?」
「今日は午後から学会があるので、勤務からは外してもらってます」
「なら診てやってもらえませんか?」
「私でよろしければ」
検査を受ける本人の意思を無視した会話が続いた。
藤宮医師が女に向き直ると、
「お兄様っ」
女は縋るような目で兄を見る。
「真白、胃カメラが嫌いなのはわかるが、今回は兄命令だ」
くっ、と喉の奥の笑いを堪える。
藤宮医師、違いますよ。妹君は胃カメラよりもこの状況に困惑しているのでしょう。
それでも俺は、気づかぬ振りをして女に言う。
「おや……渋い顔をしてるのはそういう理由でしたか」
困り果てた女は、どうやら俺の顔に弱いらしい。それに気づきつつも、俺は女ににこりと笑みを向けた。