マザーリーフ
九年後
「ただいま。」

誰もいないのに、いつも桃子はつい言ってしまう。

今日は愛菜と「ひよこサークル」に参加して帰ってきた。

いつもは、サークルが終わってもママ友達と近くの公民館に移動して、いつまでもお喋りするのだが、今日、公民館は休館だった。

公園じゃ暑過ぎるし…

ということで珍しく昼にお開きになった。

ベビーカーで寝てしまった愛菜は、汗びっしょりだ。

桃子は、よいしょと愛菜を抱え上げ、居間の座布団を二個並べた上に寝かせた。

愛菜の腹の上にタオルケットをかけてやる。

「ほんとこの頃、重いんだよね…」

桃子は独り言を言った。

今年の夏は暑い。

夕方、買い物に行くつもりの桃子は、自分も少し休もうと愛菜の隣に横になった。


その時、桃子の携帯がなった。

携帯には、桃子の知らない番号が表示されていた。

どうしよう…

一瞬迷うが、ママ友の誰かかもと思い、電話に出た。

「もしもし…」

女の声だった。

ママ友だと思った桃子は愛想の良い声で

「もしもしー?」

と返すと、電話の声はいった。


「あの、私、隆の彼女なんですけど。」

一瞬、桃子の頭は空白になった。


隆の彼女?


携帯を持つ手が震え出した。女は続けて言った。

「ちょっと言いたいことあるんで、いいですか?」

「なに?」

桃子がとげとげしい声で返すと女は信じられないことを言い出した。


「隆、奥さんと別れたがってるの。別れてあげてよ。」




繁華街にある安いが売りのファミリーレストラン。

平日の午後のせいか学生が多かった。

それでも、店内は空席があり、桃子はすぐに案内された。

何も口にしたくないが、そうもいかない。アイスティをオーダーした。

女はまだ来ていないようだった。

自分からこの店を指定してきたクセに、と桃子は苦々しく思った。

愛菜は、実家の母に歯医者に行く、と言って預けてきた。
実家は、桃子の家から車で30分程の距離だ。

桃子が携帯をいじっていると、すっと誰かが向かいの席に座った。

「桃子さんですよねー?」

あのプリクラの女だった。

茶髪の巻き毛に白いキャミソールを着て、尻がギリギリ隠れるデニムのスカートをはいていた。

「私、ゆかりです。隆から何にも聞いてないの?」

完全に初対面なのに、桃子はこの女の図々しさに呆れた。

負けてはなるまいと思う。
思い切り棘のある声で言った。

「知らないけど。」

「隆、ゆかりと結婚したいって。奥さんと愛はないって言ってる。
愛がないなら、一緒にいても無意味でしょ。隆を自由にしてあげてよ。」

女は桃子のほうに身を乗り出し、安いドラマのセリフの様な言葉をペラペラと喋った。

そして桃子の顔をじっと品定めするかのように見つめた。

桃子は言った。
「…うち、三歳の子供がいるんですけど。」

女の大量の付けまつ毛が付いた目は迫力があり、桃子は思わず目をそらした。

「養育費が欲しいなら、ちゃんと払うし。三万くらいでしょ?」

女は自分の小さなハンドバッグからタバコを取り出しくわえた。

桃子は素早く咎めた。

「ここ、禁煙よ。」

「えぇっ、やっだあ。ここ吸えないの?信じられない、サイテー。なんで、禁煙なのよー」

この女にとって、愛菜のことなど、ペットみたいなものなのだろう。

「どうやって私の電話番号調べたの。」

桃子は必死に冷静を装い、ゆかりに聞いた。
ーどうせ隆の携帯を盗み見たんだろう、と思いながら。

「ああ?」

ゆかりは眉根を寄せ、口を開けた。

「そんなこと、奥さんには関係ないじゃん。」

人を小馬鹿にした態度。
こんな女とこれ以上、時間を共有するのは無駄以外の何物でもない。

「私は隆とは別れません。結婚したら、愛とか言ってられないの。子供がいるんだから。それだけ言いにきたの。」

桃子は早口で言って伝票を掴み、席を後にした。

店の扉を開けた途端、むっとした夏の熱気に襲われた。

「なんなの、あれ…」

桃子は駅に向かう道で呟いた。
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