哀しき血脈~紅い菊の伝説3~
第二章

絵美

 次の日、絵美は学校を休んだ。
 昨日の記憶は無理なく戻ったように見えたのだが、いざ学校に行こうとするとその恐怖から足が竦んでしまったからだった。絵美の母親(佐枝の母でもある)は担任の岡崎有紀と相談して、今日一日様子を見ることにしたのだった。
 それだけ昨日の出来事は絵美にとって強烈なものだった。
 それが一日で治まるかはわからなかった。だが今はそうするしかなかった。
 父が出かけ、姉の佐枝が出かけ、母がパートで出かけていくと家の中はしんと静まりかえった。遠くで走る電車の音が部屋の中に忍び込んでくる。
 静かだった…。
 その静かさが記憶を呼び覚ます。
 飛び散った血の赤、その中に浮かぶ白い綿毛、切り裂かれ内蔵をまき散らしたウサギの群れが瞼の裏に拡がってしまう。記憶が絵実の頭脳を支配していく。逃れられない。鼓動が早まる。逃れられない。呼吸(いき)が詰まる。早まる。逃れられない…。
 絵実はベッドの中で震えていた。
 音のない世界が彼女に牙をむいていた。
 もしもこの記憶が消してしまえるのならば、私は何でもするだろう。絵実は心の中で何度も繰り返した。
それでも記憶は容赦なく絵実に襲いかかってきた。赤黒い鉄の匂いが甦ってきた。それが彼女を呑み込もうとしていた。
 絵実は自分の存在そのものが得体の知れないものに消されてしまうように感じた。
 嫌だ、嫌だ、嫌だ!
 絵実は必死にそれから逃れようと試みた。だが、それは彼女を逃そうとはしなかった。 血塗られたウサギが一羽、また一羽と赤い目を開き、切り裂かれたままで絵実の方によってくる。絵実の足下にたどり着くと上るようにはできていない四肢を絡ませて、彼女の体を上り始める。
 嫌だ、嫌だ、嫌だ!
 嫌悪感が這うように絵実の背筋を上ってくる。乾きかけたウサギの血が粘液となって絵実の足を伝い落ちる。
 誰か助けて…。
 絵実はすがるように助けを求めた。
 だが、今彼女の傍には誰もいない。
 言い様のない絶望感が彼女を襲ったとき、絵実の意識は闇の中に落ちていった。
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