魔王に甘いくちづけを【完】
記憶の鍵
ラヴル・ヴェスタ・ロヴェルトが管理する街、ルミナ。

ここにも、雨は降り続いていた。

小高い山の上にある広大なラヴルの屋敷は、ユリアが姿を消して以来とてもひっそりとしている。

広大な庭の花壇には花はおろか草もなく、むき出しの土が雨に洗われ幾筋もの川を作っている。

他を排除するように閉ざされた玄関。

結界も張られてなく、一日中人の出入りする姿も見られず、まるで誰も住んでいないかのよう。

外見がそうならば屋敷の中も静けさが以前より増していて、磨き上げられた廊下の床だけが不気味につやつやと光り、等間隔に並んでいるドアの中からは相変わらず物音のひとつも聞こえてこない。

唯一つ、一番奥の部屋を除いては――――




ガタ・・・カタン・・・・



「・・・まったく、困ったものだわ」



ナーダはついぼやいてしまった。

何も置かれてない部屋を掃除するのは、張りがないというか、心にぽっかりと穴が開いたように感じていた。

右手にバケツ左手にモップと箒を持ち、毎日の職務を果たそうとしているけど知らずに大きな息を吐いてしまう。


―――私が、ため息?―――


吐いた後にハッとする。

他人をコントロールする時に溜め息のように息を強く吐くことは幾度もあった。

そうすると大抵の者は緩慢だった動きが速やかになったり、滞っている仕事が進んだりするので便利に使用していた。

だが、こんな風に意味のない息など今までただの一度も吐いたことがない。


ナーダには“感情”というものが、あまりない。

“喜怒哀楽”でいえば、“怒”をかろうじて知っている程度だ。

あとの“喜、哀、楽”は物心ついてより今日まで、一度も感じたことがない。

笑ったこともなければ、泣いたこともない。

恐怖に怯えたことはあるが、泣いた記憶はない。

生きていくには、不必要な感情、だと思っている。



なのに――――



あの娘のふわりと笑った顔。

恥ずかしそうに俯く顔。

真っ赤になって毛布にもぐる姿。

むっすりと黙り込んだ顔。


それらを思い出すとちくんと心臓が痛むのだ。

おまけに、何故か瞳に水がたまるのだ。


「おかしい・・・」


そう思い頭を振るも、じんわりと胸に湧く感情はまったく消えてくれない。

これはどんな感情なのかわからないが、不思議なことに嫌なものではなかった。

もしかしてあの人間の娘に毒されてしまったのか。

僅かな付き合いでしかなかったのに。
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