かえるのおじさま
旅寝
「もう平気か?」

優しい声と共に、吸盤のついた手が後頭部に当てていた小裂布をそっと外す。

「ありがと」

異形の男に対する礼の言葉は、すんなりと出た。

軽い脳震盪を起こした美也子を介抱してくれたのは、蛙のおじさまだ。
水で冷やした布を血の滲んだたんこぶに当て、意識の混濁など無いかを注意深く見守ってくれた。ぽつぽつと会話を交わし、この世界の概要を教えてくれもした。

それによれば彼は蛙男ではなく、『濡肌種』と呼ばれる種族らしい。先ほどのカタツムリは『粘触種』。ほかにも色々な種族が暮らしているが、美也子の感覚で言えば『獣人』というやつだ。
人の体に他生物の頭部……完全に人型の『醜怪種』は数も少なく、独立したコミューンを作って暮らしているらしい。

「あんたは、どこのコミューンから来たんだ?」

彼の問いにも、美也子は明確な答えを持ってはいない。

「あの、この世界の……じゃなくて……」

「焦らなくていい、ゆっくり話せ」

薄い水かきを拡げて、彼は美也子の頭を優しく撫でる。それは、幼子にするような動作であった。

「まずは名前だ。自分の名前は覚えているかい、お嬢ちゃん?」

「お嬢ちゃん……?」

思い当たるフシはいくつかある。
まず、彼は始終優しい声音をかけてくれた。気遣いかとも思っていたが、静かな低音にあやされているようだと感じたのは確かだ。

それに、カタツムリとの会話の中に『誘拐』という単語があった。もちろん大人だって誘拐はされるだろうが、子供だと思っていたのならなおのこと、容易にその推論にたどり着くだろう。

「あの……私、24歳なんですけど……?」

風わたる音が聞こえるほど静かな間が開く。

「あのお?」

次の瞬間、大きな目玉がクルリと戸惑った。喉奥から呻くように弁明がこぼれる。

「違っ! そういうつもりで見たんじゃないんだ……」

「見たって、何を!」

「上着が肌蹴ていたのを直してやらなくちゃだったし、ついでに外傷とか、確認しただけだし……シタゴコロなど……」

「だから、何を見たの!」

「むっ! アンタの、胸だよ!」

「はあぁ?」

胸元を隠すように押さえた美也子が震えたのは、不快生物の頭部を持つ男にただ見されたからではない。

「確かに小さいって言われるけど、生で見たんでしょ! 大人だって解らなかったの!」

「すまん。子供にしては発達いいほうだと……」

「フォローになってない!」

ぷるりと震える涙を拭おうとした吸盤がためらった。

……これは、子ども扱いではないだろうか?

謝罪の言葉だけが美也子を撫でる。

「すまんな。醜怪種の女にはあったことがないんで、年齢など良く解らなくてな」

構造は蛙そのものでも、表情は違う。大きな口の端を大きく下げ、申し訳なさそうに視線を下げた彼をこれ以上責めるのは、酷というものであろう。
美也子はふうっと表情を緩めて見せた。

「若く見られたんだから、むしろ喜ばなくっちゃね」

「その、怒ってないのか? 胸を……見た……とか?」

「だって、あなたとじゃ種族が違うんでしょ。別にどうってこと無いわよ?」

「うむ。あんたがそう思ってるなら……」

随分と歯切れの悪い言葉だ。なにかを伝えようとしてはいても、それを言いあぐねている感がはっきりと見て取れる。

「本当に、もう怒ってないからね」

「うむぅ……」

「そうだ、名前! まずは名前なんでしょ? 私は美也子」

「ミャーコ、いい名だ」

御伽噺の人物風に、少し発音の歪められた自分の名前。美也子はここが『異界』だなのと改めて実感した。

(ちょうど良かったじゃない。現実の男には飽き飽きしていたんだし)

おとぎの国で運命の相手を探す旅に出るのも悪くは無い。そう、ファンタジーなら良くある話だ。 

そんな感慨など知らず、蛙男が握手を求めて片手を差し出す。

「俺はギャロ。見てのとおり、ただのおっさんだ」

どうせなら恋の相手は『オジサマ』ではなく、王子様がいい。
そう思いながら握った彼の手はひんやりと湿った感触で、指先の吸盤は僅かにざらついていた。
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