くじらを巡る冒険
§3 いるか堂
「あの」と背中で声がした。
 そらきた、と思いつつ、黙って筆を走らせていると、ジリと畳の擦れる音がした。
「あの!」
「何?」
「聞こえてるじゃん」
「当たり前だ」
 バケツに筆を放り込み、胡座のまま体を入れ替えると、仁王立ちの少女と目があった。高校生だろうか、肩に鞄をかけ、カーディガンのポケットに手を突っ込んでいる。ついと目線を戻すと、健康そうな太ももの隙間からご本尊様が見えた。罰当たりな話だ。
「お前」
 俺はため息と共に肩を落とした。
 まただ。またこのパターンだ。何でこんな小さな寺にばかり次から次へと問題児がやって来るんだ。ここは駆け込み寺か?東京だぞ。御茶ノ水だぞ。田舎の大寺じゃあるまいし、いったいぜんたい俺が何をしたって言うんだ。
「まず靴を脱げ靴を」
 呆れ顔で諭すと、少女は「あそっか」と言って脱いだ靴を縁側に揃えて戻ってきた。
「それで?」と頭をひと撫でする。少々伸びてきた髪がザラリと手の平を擦る。少女はその俺の頭をマジマジと見つめ、「お坊さんだ」と当たり前のことを呟いた。今さら過ぎるだろ。
「用事は何だと聞いている」
「あたしりほ。里の稲穂で里穂」
「それで?」
 里穂と名乗った少女は、意外にも畳に正座し、キョロキョロと本堂を見渡している。欄間から差込んだ朝日が、ガランとした座敷の中に半透明の影を落としていく。
「何描いてたの?」と里穂が訊ねた。
「趣味でね、思い浮かんだ風景を描くのさ」
「お坊さんなのに?」
 何の関係があるんだ?と首を傾げる。どうもこの女といると調子が狂う。「春香」の明美ちゃんの方がまだマシだ、などと俗世に思いをはせていると、里穂が庭の蓮池に目を留めたまま呟いた。
「見つけて欲しい物があるの」
「だろうな」
 と相づちを打つ。
「何で?」と聞きたげな里穂の顔をよそに続きを促すと、里穂は一瞬躊躇ってから顔を上げた。

「見つけて欲しいの。あたしを殺した男を」

 ふわり、と風が舞い込んだ。
 登校時間なのだろうか、門の外から子供達の話し声が聞こえては消えた。ふむ、と頷いて無精髭を撫でる。
 少女の拳が震えていた。
「いいだろう」と俺は立ち上がった。
「え?」と里穂が顔を上げた。
 俺は少女にさっきまで描いていた画用紙を差し出した。絵を見た途端、里補の顔が強ばった。
「これあたしん家……誰この男」
「さあな」
「さあなって」
「ま、これが俺の能力ってヤツでね」
 いわゆる予知夢ってのに近いんだろうが、正直面倒な能力だ。おかげで次から次へとこんな訳の分からん奴が降って湧いてくるんだから。
「行くぞ」
「どこに?」
 里穂は絵を放り投げ、俺の僧衣の袖を引いた。俺は少女の頭を優しく撫で、いつもどおりの笑顔を向けた。
「いいから靴を履け靴を」



「いるか堂」完
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