美しい月
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腹休めをした美月は、勧められるまま、シャーラムのバスオイルを垂らした広すぎる浴槽に、ゆったりと浸かっていた。
あんな話をすれば、嫌でも思い出す。

秘書として就職した初めての企業…現在の勤め先とは比べる価値がない程小さい企業だったが、社長になったばかりの前社長の息子の秘書として勤めていた。少々強引で、視野は狭いが、根は悪い男ではなかった。
互いに慣れない中、励まし合い支え合い、半年で意識し合うようになり、一年後には恋人になった。二年後には理解も十分に深まり、企業としても随分成長を遂げた事を機に婚約した。
ところがそれ以後、男は美月を秘書としてしか必要としなくなった。美月の後に入社し、美月が教育してきた新人秘書と恋に落ちたからだ。社内でも優秀で評判のよかった美月は、他社からもヘッドハンティングされる程で、男は体面や箔の為に強引に美月との婚約を決めた。
美月と永遠を誓おうと言うのに、男は隠しているつもりで新人秘書との浮気を続けた。愛故に捨てられる事を恐れ、知らぬ振りを続けた美月は疲れ切っていた。
そんな時、新人秘書のミスで社内の取引他社情報が漏れる事件が起きた。企業価値すら揺るがす程の事件に、社長である男は真っ先に美月を責めた。新人秘書を庇い立てる素振りすら見せて。
社内では美月に非がない事くらいわかってはいたが、すでにワンマンさに拍車が掛かっていた社長に盾突いて、クビになった社員は何人もいた。そのせいで社内では誰も、美月を庇いはしなかった。
現在勤めるS&Jからヘッドハンティングされたのは丁度その頃だ。今も付いている常務の山口が、美月の才能を買って、引き抜いてくれた――。

「……永遠なんてない。たった一人、たった一つになんてなれない…いつだって、何にでも代わりはいくらでもあるんだから」

S&Jに入社して三年…美月は未だ、恐れを抱いている――。



「…カシム」
「はい」
「ミツキをどう思う?」
「どう、とは?」
「脈はあると思うか?」
「…今現在ならば、十中八九ないでしょう」
「ミツキは俺に何か隠している」

不服だと訴える表情に、カシムがわざとらしく溜息をついて見せた。

「…昨日会ったばかりの男に、身の上全て話す女性もどうかと思いますが?」
「だが躯は交えた」
「媚香を部屋に焚きしめた挙げ句、媚薬を薄めず飲ませて事に及べなかったら、男としての殿下を疑いますよ」
「………」

にべも無く返されて、サイードは不機嫌顔だ。カシムは幼い頃、主にサイードの遊び相手として王子宮に上がり、共にイギリス留学なども経験してきた。サイードより一つ上で、元より世話焼きな性分でもあったが、侍従に上がったのも自然の流れだ。

「ミツキ様からお話し頂けるのを待つべきです」
「四日後には戻るのだ…それでは遅い」
「ならば本国でゆっくりと掻き口説いては?見知らぬ異国の地…頼れるのは殿下だけです」
「月離宮に籠めるか…」
「閉じ込めてはなりませんよ。反発されてしまいます。愛を得るどころか嫌悪されるでしょうね」
「ならばどうせよと!?」

不服は怒りに変わる。

「一体、何を焦っているのですか」
「……月のない夜のように…ミツキが見えなくなってしまう気がする」
「こればかりは行動が早ければいいものではありません。対応は相手にもよりますが、一般的に考えれば躯の繋がりが出来たなら、いずれ情も付いてくるはずですから素気無く返される可能性も低い…今は様子を窺うべきですよ、殿下」

柄にも無く焦っている。本国では王位継承権第二位という、国中の民から敬愛される人物ではあるが、君主制でない日本ではまるで絵空事だ。日本に在する天皇も象徴であって、国を動かす一切の権力を持つわけではない。




風呂から上がった美月に用意されたのは、また民族衣装だ。

『やはりよく似合うな』
『えぇ、よくお似合いですミツキ様』
『あの…普通の服はありませんか?これは落ち着かなくて…』
『心配ない。俺も着るからな』
『そうではなく…』
『そろそろお時間です』

抗議する間もなく、美月はサイードに引かれて車に押し込まれ、隣に座らされた。

『外ではこれを』

ふわりとベールを掛けられた。

『俺以外に素顔を見せるな』

ベール越しに額にキスされた。美月を見る目が触れる手が、熱くて甘い。

『俺の美しい月…』

抱き寄せられて、サイードの肩口に頭を固定された。空いた逆の手は絡めるように繋がれている。目的地に着くまでずっとその状態で、着いたら着いたで腰を抱かれた。


最大規模の水族館は、いくつもの大小水槽やショースタジアム、体験コーナーや資料館など、見るものが多い。サイードらは優雅に水の中を泳ぐ魚たちを見つめていた。色とりどりの熱帯魚、おどろおどろしい怪魚、一々リアクションするサイードに、美月が時折小さく笑う。
それに気付いたサイードは瞠目した。初対面を彷彿とさせる様相だ。

『もっと笑えミツキ』
『え?』
『お前の笑みを見たい』
『っ…』

ベールを上げてキスがなされた。

『俺の美しい月』

熱帯魚が泳ぐ華やかな水槽の前で、啄むようなキスが何度も繰り返される。極彩色の背景の中にサイードがいる。視界いっぱいにサイードが映り、唇の柔らかさとそこから齎される疼きは昨夜を思わせた。

『昨夜の月も美しかったが、今もまた…』

それを思い出した途端、ふわりと香が香った気がした。サイードの香なのだから、至近距離にいれば当然香るものだが、今になってそれが美月の肌に残る昨夜の感覚を呼び覚ます。背を震わせれば、気遣わしげに抱き寄せられる。

『ミツキ…どうした』
『っ…何でも…ありません』

目を伏せるが、顎を掬う指に阻まれる。

『そんな顔をするな…俺の躯が疼く』
『っ』
『それは俺だけに晒されるべきものだろう?俺の美しい月…お前は俺だけの月だ』

数人の護衛や水族館関係者から隠すようにベールを戻す。

『また今宵…俺の月が美しく煌めく様を見せてくれ』
『っ、殿…下』
『…続きを回ろう』

腰を支えたサイードが歩き出すと、自然に美月の足も前に出る。

『お前と見るものは何もかもが美しいな』

水槽の前に立ち止まるたび、サイードは魚たちよりも美月を褒める。気障な賛辞に慣れない美月は、そうされるたびに居た堪れなくなるのだが。


ランチは水族館内にある水槽を眺めながら食事が出来るレストランで。シャーラムから持ち込んだ食材でサイードの宮殿の料理人が作るのだ。水槽の前での食事中、カシム以外の人間をレストランの外に出して始まった。
食事の後にも残りの展示やショーを見て、水族館を満喫した頃にはすでに日が傾いていた。

ホテルに帰る車内で、サイードにアズィールから連絡が入った。ホテルの部屋にはアズィールが待ち兼ねていた。

「急にすまないな、サイード」
「どうしたんだ兄上」
「明日なんだが、ミズクレハラを一日借りる事は出来るか?」
「ミツキを?」
「取引先がわざわざ挨拶に来るんだが、先方はドイツ語しか出来ないらしい。社内でドイツ語を話せるのは彼女だけだそうだ」

そう言われては仕方がない。サイードは美月を呼んだ。

『ミズクレハラ、そう言うわけなんだが…頼めるだろうか?』
『勿論です』
『では明日は迎えを…』
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