若と千代と通訳
臣の煩悩とその他のはなし


臣は魘されていた。
〝あの日〟から、千代の少しかさついた唇の柔らかさと薄い舌の感触が頭から抜けない。
仕事と私生活でのオンオフは押さえているため仕事に影響はないが、プライベートにかなりの支障をきたしていた。
千代に惚れてはや幾年、禁欲に禁欲を重ねた臣の理性が決壊したのは、あの涙ながらの、そしていつも臣に対して使う丁寧な言葉遣いとは違う、普段の彼女の言葉遣いでの訴えが原因だった。内容も悪かった。いや、最高だった。
志摩の心無い言葉に傷付いて、泣いて、憤って、臣に吐露した千代のきもち。
正直に言う。
(かわいかった)
あの場で押し倒して小さな体を押さえ込んで抵抗も飲み込んで、細身のジーンズを剥ぎ取って股開かせて濡らす手間すら惜しむ余裕のなさでやりたくなる程度には、臣は揺さぶられた。
更にはその後も最高の展開だったように思う。
千代に殴られた頬は痛くもなんともなかったし(例え痛くても全く構わないのだが)、心底から傷付いて涙で潤んだ眼で睨まれると、なんだかもうどうしようもなく困り果てて、とにかく威嚇するその体を引き寄せて抱き締めて剥き出しの爪を切ってやり、頭を撫でて餌付けしてあったかくしてごろごろ言わせてどろどろに溶けるまで甘やかしてやりたい衝動に駆られた。
そしてさらにその後。
土下座して詫びを入れた志摩への一発は男前の一言に尽きる。
それまでえんえん泣いて不満を口にしていたのに――大の男に土下座で謝罪されていながら、ほだされずに自分の仇をきちんととったのには惚れ直した。
とはいえ、志摩に対する臣の怒りが収まったわけでもない。主人たる自分を慮ったゆえの言動とはいえ、千代に投げられたあの言葉は許容しがたい。
千代が去っていった後の暗い路地で、千代の男前な行動に爆笑していた志摩に臣は言った。
「腹を切れ」
とはいえ、本当に腹を切らすわけにもいかない。
志摩は近藤組九代目組長と兄弟盃を交わした男だ。九代目から直々に頼まれて今は臣の世話役を買って出てはいるが、実際は臣の上に立つ男なのである。
そんな志摩が、今日も元気に煩悩に憑り殺されそうな臣を起こしに来た。
「おはようございます、若」
すっと音もなく開いた襖から、今日もびしりとスリーピースで決めた志摩が顔を出す。この男が見苦しく身形を崩しているところを、臣は見たことがない。
それを横目で見ることもなく、起き上がった臣は肌蹴た浴衣をそのままにぼんやりと布団を眺めていた。
分厚く軽い上等な布団の上に千代の小さな体を押し倒して服を剥ぎ取って手首を拘束してあばれる脚を舐めて指の先までしゃぶり尽くして顔を真っ赤にさせて恥らわせたい――。
「なんすか若。布団なんざじっと見つめて……あ、夢精ですか?」
臣の朝っぱらからの煩悩炸裂は、志摩の一言で空の彼方に散った。
いろいろと限界なのである。



「例の鬼眼羅ですけど、最近やけにおとなしいって話ですよ。裏じゃなにやら、人数集めてるって話ですけど」
車を走らせている海江田が、ルームミラー越しに臣を見ながら話を進める。
臣はどこか気だるげな表情で、流れる窓の外を眺めていた。臣の隣に座る志摩は、すぱすぱとピースをふかしている。
行き先は近藤組十代目組長宅。もうすぐ正月がやってくる。それに合わせて、近藤組の幹部が集められて新年を祝う宴が開かれるのだ。場所は四代目から受け継いだ由緒ある組長宅だが、その時の警備と下っ端の人数の打ち合わせに向かうことになっていた。
というのが表向きの公的な理由だが、臣はそれ以外に用はなかった。
ただ、近藤組の頭が呼んでいるから向かうだけで、たまには仲良くご飯でも食べようとのお誘いに乗ったわけでは決してない。
「半グレが人員かき集めてなにする気だよ」
二本目のピースを懐から取り出して、志摩は火を点けた。
「さあー?うちみたいに正月の宴会でもするんじゃないすか」
「んなわけねーだろ」
ごすっ、と後部座席から志摩の蹴りを喰らった海江田が悲鳴を上げる。
「ったく、年の瀬に騒動たあ、ガキは情緒がなくていけねえな」
はあーと志摩の口から吐き出された紫煙が、レクサスの天井を舐めた。


「よくいらっしゃいました」
旧家もかくやという門を潜ると、美しい和服美人が臣達を出迎えた。
数人のボディガードと共に、律儀に頭を下げる。九代目組長宇佐美の本妻である。
「姐さん、ご無沙汰しておりました」
志摩の言葉と同時に、臣もきちりと頭を下げる。臣ほどの巨体が腰を折ると、妙な圧迫感があるがそれは気にならないらしい。和服美人の多恵は、ふふ、と小さな口に笑みを刷いた。
「相変わらず熊さんなのね、臣は」
臣よりいくつか年下だが、その貫禄はやはり総長の妻だけある。
妙に肝っ玉の据わった女で、感心すると同時に臣の眼にはどうしても可愛げがなくうつる。いや、愛する宇佐美の前でなら、その隙のない仮面も愛らしく変わるのだろうが。
「今日の会食、宇佐美は昨日からとても楽しみにしていました。寒かったでしょう、どうぞ」
頭を下げすぎず、かといって偉ぶらない。
妙に色香のある容貌と気さくな性格は、下っ端にも人気だ。
広い玄関からは入らず、石畳を少し歩いて庭に入っていく。
砂利の敷かれた日本庭園はきちんと手入れされ、どこそこに人相の悪い男がいる以外は、立派な宅である。臣のようにスーツを着ている男もあれば、万年ジャージの須藤のようにラフな格好をしている男もいる。変り種でひとりふたり、男が女かわからないような男もいるが、今日はどうやら不在らしい。その手の店か仕事か休みか。どちらにしろ、臣が気にすることではない。
最も奥まった庭までくると、警備も厳重になる。
そこに、近藤組十代目組長、そして臣の腹違いの兄である宇佐美はいた。
室内用の着物を着て、畳に座って筆を握っている。趣味は書道である。
「臣」
砂利の足音に気付いた宇佐美が顔を上げて臣を見た。
血が通っているとはいえ、臣とは似ていない。
細面で柔らかな面差しは、ヤクザの組長というよりは一般人に近い。理系で暴力が苦手。ただし、今の時代のヤクザのトップとしてこれ以上の人材はいないと九代目に言わせた男。
「ご無沙汰しておりました」
さすがに、ここでまで黙っているほど臣も礼儀知らずではない。
臣は深く頭を下げて、舎弟の礼をとった。
それに穏やかに笑んで、宇佐美は志摩に視線をやった。
「志摩も久しぶりだね。息災でしたか」
たまに敬語が混じるのは、人の上に立つことに未だに慣れないからだ。一部の古株は、もっと威厳を持ってもらわなくてはと苦言と呈すが、それでも宇佐美がいなければこのご時勢、近藤組はまわらない。苦くは思っているが、その礼儀正しさが妙に清らかに見え、重鎮からもそれほどうるさく言うわけではなかった。
「お陰様で。若の世話を楽しんでやらせていただいております。総長もお元気そうで」
志摩がロマンスグレーの容姿を遺憾なく発揮し、渋く美しく微笑んだ。
宇佐美は、九代目の旧知である志摩とも長い付き合いだ。
その志摩の微笑みに、多恵が珍しくぽーとしている。多恵は臣より年下のくせにジジ線であった。志摩は多恵の前では常時猫を被っているので、多恵は口汚い志摩の本性を知らない。
一通りの挨拶が終わると、宅内へ上げられた。
勝手知ったる造りの家を、臣と志摩は多恵に先導されて歩く。
いくつか角を抜けると、四角い中庭が造られた廊下に出る。全面防弾ガラス張りのそこからは、中庭のもみじと錦鯉の池がよく見えた。
「そういえば、臣がご執心の女の子、あの子とはどうなったの?」
前触れもなく、多恵が前を向いたまま口を開く。
それに、思わずびしりと反応した臣を無視して、志摩はふっと紳士的な笑みを洩らした。通常ならげらげらと下品に笑い狂うところである。
「言ってやらんでください、姐さん。うちの若も苦労してんです」
主に煩悩退散について。
「まあ、臣が本気になっても落ちないの?」
「いや、本気を出すまでなかなかいけなくてですね。うちの若はシャイなんですよ」
「あらあ、うちの宇佐美の強引さを見習わせたいわ」
柔らかで穏やかな見た目の宇佐美は、性格も実にその通りなのだが、ある一点でおかしくなることがある。
多恵のことだ。
多恵が絡むと、普段菩薩もかくやというほどの宇佐美は完全になりを潜める。
当時女子高生だった多恵を半ば誘拐するように連れてきて、当時与えられていた家に立てこもり、愛人に据え、そのまま九代目を納得させて本妻の座につけた。お手並み鮮やかというより、多恵を本妻と認めなければ十代目の座は蹴るという脅迫だった。
そうして粘着質な男に望まれて望まれて(望まれすぎなような気もしないではないが)、近藤組十代目組長の本妻になった多恵であった。
年下好きと恋狂いは、宇佐美と臣の唯一の共通点かもしれない。
「爪の垢でも煎じて飲ませますかね」
志摩が普段のあくどい表情を隠しもせずに言う。
「でも、もし臣が宇佐美のように非力になってしまったら大変ね」
頭脳が宇佐美なら、腕力が臣だった。
今の暴力団が昔ほど暴力に頼らなくなったとはいえ、そういった手が不要になることはいつの時代でもきっとない。
宇佐美が不動産業や商業で組を食わせ運営するなら、その運営で生じた摩擦を解消するのが臣の役割だった。
「……」
臣はあえてこの件に関してはコメントは避けた。
避けたというより、頭の中は千代の泣き顔がエンドレスリピートされていた。
あの日以来、千代と顔を合わせていない。

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