若と千代と通訳
絶対絶命の千代と知らされる臣



「チーヨ、ヨルゴハンどうする?今夜休みでしょー?」
もこもこの羊が千代を覗き込んでいた。
くりくりとした茶色の目が可愛い……いや、訂正。もこもこのパーカーを着込んだ同居人、フィリピン人のアビゲールだ。
「……ラーメン」
小さなコタツに潜りこんで、千代は目を閉じながら答える。
「またー!?だって今日イブだよ?なんでラーメンなのさあ」
台所からビール片手にカレンが出てくる。
三人が揃うと、六畳の居間はあっという間に狭くなる。
小さなブラウン管テレビ(地デジチューナーつき)に、ガス屋さんからもらった色気のない実用性重視のカレンダー、剥がれた壁紙を隠すように置かれたカラーボックスには、アビゲールたちが読み古したファッション雑誌と大量のポケットティッシュ、電池やらちらしやらが詰め込まれている。見たまんまだが、この家の住人は全員生理整頓が苦手である。
「この前からどうしたの?なんか元気ないジャン」
こたつにもぐりこんできたアビゲールが、心配そうに千代を見ている。
カレンも潜りこんでくると、長い脚が四本増えて狭いコタツの中の密度が上がった。
――〝この前〟。
アビゲールの言葉に、千代は薄目を開けた。
(……臣さんも志摩さんも、今なにしてんだろ)
あの日以来、千代はふたりに会っていない。ふたりが居酒屋「ごんぶと」に来ることもなかったし、それ以外で見かけることもなかった。
(あんな真似して、どんな顔で会えばいいのかもわからないんだけどさ……)
とはいえ、全く会えないとなると、関係修復が可能なのか、不可能なのかすらわからなくてもやもやする。
「オミさんとなんかアッタ?」
カレンが神妙な顔で千代を見ていた。アビゲールも、消沈している千代の様子に、困惑の表情を浮かべている。
なんかあったと訊かれれば、なんかあったと答えるのは簡単だ。とはいえ、なんて説明すればいいか。
(私の軽率な行動が原因とはいえ、あの志摩さんにアバズレ呼ばわりされて、何故か臣さんにべろチューかまされたって?)
言えない。
自分で言ってても、片思い女の可哀想な妄想のようにしか思えない。
「……ふたりはさあ、臣さんの声聞いたことある?」
千代はちょっとだけ顔を上げて、正面に座るカレンとアビゲールを見た。
日本人より堀の深い、端正な顔がふたつ、千代を不思議そうに見つめ返している。
「あるよ?アンマ喋んない人だけど、アア、とか、ダマレとか、脚開け、とか」
ゴツッ。
不思議そうな顔をしたアビゲールの頭に、カレンのチョップが振り下ろされた。
千代は死んだ。
「臣さん、脚開けとか言うんだ……」
なんだそれ。どういう状況だ。あの状況しかないだろ。
完全に絶望の海に沈んだ千代の頭に、アビゲールの可愛い笑い声が落ちてきた。
「ふふ、嘘ヨー。オミさんの声なんて聞いたことないよ」
「あの人、チマさんの腹話術人形みたいだよねー」
カレンとアビゲールがけらけらと笑っている。
おい。
「さいってー」
千代は思わず、恨みがましい目でふたりを睨みつけてしまった。
ブラウン管の中では、美味しそうなコンビ名の芸人がクイズに答えている。
「ごめんごめん、だってチーヨさあ、オミさんが好きなのに、オミさんのこと全然知らないんだモン」
カレンが困ったような顔で笑う。
それは先ほどのジョークより、よっぽど深く千代の心臓を抉った。
こたつの天板に伏せていた顔を起こして、千代は泣きそうになる。
「……全然知らないのに、好きになるのっておかしい?」
おかしいのかもしれない。
なんで好きになったのかなんて、千代にもうまく説明できない。
きっかけは、祖父の葬式での真摯な態度だった。
あの人だけが、千代に気付いて、千代に声をかけてくれた。
それから、頬のシャープなラインだとか、ぴんと伸びた背筋だとか、熊のようなに大きな体なのにスマートな立ち居振る舞いだとか、語らないけどもの言いたげな眼差しとか。煙草持ってる指も好き。
(……ほんとに臣さんのこと、なんも知らないな)
声すら聞いたことない。
どんな調子で話すのか、どんな言葉遣いなのか、こうして千代が落ち込んでいたら、どうやって慰めてくれるのかすら、知らない。解らない。
「やっぱりこの恋、おかしい……」
それでも、好きなのに。
「おかしくなんかないヨ!」
千代の今にも消えそうな声を、アビゲールが大声で止めた。
カールした艶のある黒髪が、勢いに負けてふわふわと揺れる。
「そんなの、全然おかしくないよ!その人のゼンブ知らなきゃ好きになっちゃいけないなんて、そんなの横暴だよ!人間じゃ無理だよ!クルシイよ!」
真剣なアビゲールの顔が、千代にはとても珍しく映る。
いつもどこかヘラヘラとして、借金やばいー借金やばいーといいながらも毎日楽しそうに仕事をしている彼女とは違った。
「いいじゃん、何も知らないところから始めたって!好きだと思わなきゃ、知ろうとも思わないじゃん!」
アビゲールの声は必死だった。
その言葉に、千代の喉と胸がぐっと詰まる。
「……アビゲール姉さん、めっちゃかっこいいっす」
こぼれた言葉は涙声だった。
今にも鼻水を垂らさんがごとく顔を歪めている千代を見て、カレンがふっと笑った。
「チーヨぉ、チヨはさ、ニホンにきてからできた初めてのこっちのトモダチなんだよ。私達、チヨが好きだよ。幸せになってほしいよ、だから、ガンバってよ」
年上の千代よりずっと大人びた笑顔を浮かべたカレンが千代を見ていた。どんな悩みも包容して、大丈夫と言ってくれている。
千代は目頭が熱くなるのを、抑えられなかった。
カレン、いつも人をパシリにつかいやがってとか思っててごめん。
アビゲール、臣さんに抱き上げられたとき、ヤキモチ妬いてごめん。
「アビゲール、カレン、ありが」
「こんばんはー」
千代が震える声で紡いだ感謝の言葉を、見知らぬ男の声が遮った。
立て付けの悪い玄関の戸が、がたがたと無理矢理こじ開けられる音がする。
(タイミングわる……)
千代は涙を引っ込めて、こたつから這い出た。
「郵便かなあ」
カレンとアビゲールは、下着にパーカー一枚なので、客の対応には出すに出せない。
「えー、でもなんか騒がしくない?」
カレンが訝しげな声を上げる。
言われてみれば、複数の気配と男の声がする。
「なんか怪しい勧誘とかじゃないの?ニホンて多いんでしょ?」
アビゲールが眉間に皺を寄せてこたつから出ようとする。それを留めて、千代は立ち上がった。
「私が出るよ。ふたりが出たらもっと危ない」
こんな美人が無防備な格好で対応なんてしたら、下手に目をつけられかねない。派手な容姿が目立つのか、日常的に水商売のフィリピン女と軽く見られることがふたりはあるのだ。セキュリティなんてないに等しいボロ家なのだから、それくらいの警戒はしなければ。
「すいませーん。いないんすかあー」


喉が潰れた男の声に急かされるように、千代は玄関に出た。
たてつけの悪い戸が半分ほど開き、ガラの悪そうな男が三人、玄関の中へ入ってきている。戸が半分しか開いていないので正確な数はわからないが、外には数人が控えているらしい。見る限り全員男。
さすがに怪しい。
「……どちら様ですか?」
来客を訝る千代の姿を認めると、三人の男の中で一番背が低い男がにっこりと笑った。他ふたりは妙に高圧的で、無表情で、どこか不気味だ。

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