若と千代と通訳
須藤のジャージはレアもん


「お前、竹下さんの弟だろが」
体に巻きつけられたビニールテープを臣にとってもらい、千代がやっと手足を自由に伸ばしたときだった。
座り込む明を見下ろして、志摩がぽつりと零した。
「……んで知ってんだてめえ」
明の細い目が憎憎しげに志摩を睨みつけるが、志摩はふうと煙草を吹かしただけだった。
「墓参り、毎年こっそり行ってっからな」
真相は、明が知るものとは違った。
梅沢連合と近藤組がぶつかった先の抗争で、舞い込まれた一般人がひとり亡くなった。
それが明の兄であったらしい。抗争に巻き込まれたのは違いないが、実際には梅沢連合の血走った連中が同業者との区別もつかず、近藤組暴行を加えたらしい。臣が一般人が巻き込まれているそのことに気付いたときには、既に遅かった。
致命傷を受けた明の兄は既に虫の息で、息があることすら惨い状態だったという。救急車を呼んでも間に合わない。ただ激痛に呻くだけの明の兄は、臣に縋りついた。
「いっそころしてくれ」
その一言だったらしい。
図らずも一般人に手をかけた臣は、家族にも謝罪に向かったが受け入れてはもらえなかった。当然といえば当然だ。ヤクザもんの勝手な抗争に、一般人が巻き込まれること自体あってはならないことだったのに、散々暴行を加えられ、殺してしまった。そういう事件は多々あるが、近藤組ではそれが最大の失敗だった。
「……ま、お前に話がいかねえのもわかるさ」
志摩が慰めるように付け足した。
仲の良かった竹下兄弟の絆。
そこに、近藤組の臣を目の仇にしていた梅沢連合に付け込まれたのだ。
明はなにも言わなかった。
信じるか信じないかは、お前次第だと、志摩は話を終えた。



どたどたと、廊下から足音が響く。
「お疲れさんっした!車回してきました!」
相変わらずのジャージ姿で登場した須藤が、場の空気に似合わない明るい声で言った。
明が戦意喪失した時点で、この誘拐劇は幕を閉じたのだろう。
意識を取りもどいた無表情コンビも、明が抵抗する素振りがないのを見ると、ただ黙って煙草をふかしていた。
臣は千代の拘束を解くと、立ち上がった千代を攫うように抱き上げた。
「!?」
あまりにあっさりと抱き上げられたので、千代は声を上げる暇もない。
臣の片腕にお尻を乗せられ、まるで小さな子供のように抱き上げられている。
臣は志摩に一瞥をくれると、そのまま部屋を出て行った。
須藤が、姉さん、無事でしたか、と千代に話しかけて、臣にケツを蹴られた。
「……千代嬢がまじで若のイロだったら、お前らは近藤組の代紋に唾吐いたことになってたぞ」
臣達の背中を見送りながら、志摩はけらけらと笑った。
そうなっていれば、この程度の騒ぎでは済まなかった。千代がなんとか無事だったことも大きい。下手したら、明側は全滅だ。
「……んだよ、臣の女じゃなかったのかよ」
明がふてくされたように言うと、志摩はにいと明に負けず劣らずの三日月を浮かべた。
「まだ、な。うちの若の片思いだ」
志摩の悪がきのような顔に、明は気の抜けたような笑いを洩らしただけだった。



「お、臣さん、私、歩けますから」
臣に抱かれて出た廊下は明るかった。須藤が灯したらしい蛍光灯に照らされた廊下の床に、男達が転々と転がっている。屍累々……それを作り出しただろう臣を腕の中から見上げて、千代は眉を下げた。
(ゲロ臭いのにこんな至近距離なんてどんな拷問……)
さっきまで抱きついてむせび泣いていたが、あれは興奮していたから許せる状況であって、一旦頭が冷静になってしまうとそうもいかない。
どこの世界に、自分の吐瀉物の臭いを好きな男にかがせたいと思う女がいるのか……探せばいるかもしれない。
「臣さん」
しかし千代の必死の懇願は、臣に華麗にスルーされている。
いつもなら志摩がフォローを入れてくれるところだが、今は臣と千代、ふたりしかいない。
見上げた顔がいつもより近くて、その鋭い眼光が蛍光灯の灯りにきらりと光った。
(なに考えてんだろ)
無表情といえば無表情で、でもどこか怒っているようにも見える。
そうして臣の顔色を窺っているうちに、外に出ていた。
しゅ、と耳元を掠った冷たい風に身を小さくすると、臣の体を抱く腕に力がこもった。ぐっと押し付けられたコートが暖かくて、千代は思わずそれに擦り寄る。
周囲は林に囲まれていて、灯りが少ない。出てきた建物を見れば、廃墟とまでは言わないが、明らかに人の手が入らなくなって等しいような概観の三階建ての鉄筋の建物だった。塗装も中途半端のところを見ると、完成の前に打ち捨てられたらしい。
その正面入り口の付近に、車が四台、停まっていた。
レクサスが二台、型の古いベンツ、ローレル。どれも全てカラーが黒で、夜の闇に紛れてしまいそうだった。

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