若と千代と通訳
だって女の子だもんな千代と詰めが甘い臣



「臣さん」
千代が囁くような声で臣を呼んだ。
むしゃぶりつきたくなるような細い肩が臣の目の前に差し出されている。
千代の細くも柔らかい細腕が、臣の首に躊躇なくまわされた。
千代の鎖骨が、臣の唇に触れる。
「長い間待たせてごめんね。もういいよ。……いいよね?」
そう言って可愛く覗き込んでくる顔が堪らない。
臣は千代の体を思い切り抱き締めると、その香りを胸いっぱいに堪能した。

――コンコン。
遠慮がちに鳴らされたその音に、臣ははっと瞼を上げた。
見れば、窓ガラスの向こう側で千代がこちらを覗き込んでいる。
運転席に座ってうとうとと煩悩にまみれた夢を貪っていた臣は、夢と〝本物〟の区別がつかず暫しぼんやりとしてしまった。
何故服を着ている?さっきハダカだったのに?
思わず口をついて出そうになった台詞をあくびと共に外に逃がすと、臣は窓ガラスを開けた。暖房で暖まっていた車内に、冷え切った冬の空気が入り込む。
「ごめんなさい。遅くなって」
アルバイトが長引いたと、千代は困ったように眉尻を下げて謝罪を口にした。しかしその表情はどこか生き生きとしていて、楽しそうである。
今からデート、とうきうきしていることは、言葉にされなくてもわかる。
(かわいい)
臣は千代の謝罪に小さく頷いて応えると、助手席に回るように促した。

クリスマスも過ぎた頃――。
ここ、某県某市の繁華街にもすっかり馴染んでいた異国の文化はとうの昔に姿を消した。
きらきらとしたLEDの豆電球がそこここでクリスマスっぽいものを形どった飾りも、無理矢理クリスマスツリーの様相を強制されていた街路樹として植えられたイチョウも、そのてっぺんでピカピカと光っていた星もすでに回収され、世間はクリスマスから一気にお正月ムードへと切り替わっている。
臣が律儀に千代をデートに誘ったのが、正月も間近な今日だった。
千代が誘拐され救出されたイブ、めでたく相思相愛となったふたりは、それでも互いに多忙の身ゆえ恋人らしい真似事すらできずにいた。
千代は、想いの確認はしたが私たち付き合ってるのか?と疑問に思っていたし、臣は臣で想いが通じ合ったからといって腐ってもやくざもんの自分がずかずかと千代のテリトリーに踏み込んでいいものか迷っていた。
そんな臣の尻を蹴っ飛ばした志摩の発案が、見事に仕損じたクリスマスリベンジデートである。

「臣さん、どこに行きましょうか」
千代が助手席に乗り込んだのを合図に車は走り出す。
少し緊張した面持ちながらも嬉しそうな千代の横顔を横目で舐めるように見つつ、臣はドアポケットに差し込んでいたパンフレットを千代に差し出した。
「……水族館?」
高速を使って30分ほどの距離にあるそこは、まだできて日は浅いが、珍しい深海魚がいるとかでテレビでよく取り上げられていた気がする。しかし車を持たない千代にとって交通の便がいいとはいえない立地なので、まだ行ったことはなかった。
千代がパンフレットをめくると、可愛らしい魚のイラスト入りで、大水槽をルミネーションで飾った催しがあると書かれている。このイベント期間は閉館を大幅に延ばして23時まで開いているとも。
「私、魚が泳いでるの見るの、好きです」
内心飛び上がりたいほど喜んでいる千代だが、さすがに好きな人の前でテンション丸上げできるほど馴れしていない。アビゲールとカレンには、とにかく感情は素直に表に出せといわれていたのに、早速くじけた気がする。
なので、せめて言葉で、行き先の水族館が楽しみだと伝えてみる。
伝わっただろうかと臣の顔を窺うと、その鉄壁の直線マウスが穏やかに緩んだのを千代は見逃さなかった。
(……うれしい)
好きな人が、自分のたわいない一言で表情を緩めてくれることがこんなにあったかいことだとは、千代は今の今まで知らなかった。
目的地に向かう途中に見た夕焼けが妙にきれいだったが、お互いに胸いっぱいの千代と臣は、ほぼ無言で道中を過ごしてしまった。

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