とある夫婦の一日 【完】
後編

 それから、今日で結婚一年目。
 彼には迷惑をたくさん掛けただろうな。
 友人にさえ知らせないくらい、私との結婚を恥じているんだろう。

 廊下をとぼとぼと歩いて、キッチンへ向かう。食べ終わった食器は、流しに置かれて水に浸けてあるからだ。

 食器を洗い終わって、冷蔵庫の中を確認してから買い物に出る。
 最寄りのスーパーは夫が勤める高校の近くだった。
 結婚して当初の高校は、今住んでいる所から徒歩だと一時間くらいの所にあって、彼は頑張って自転車出勤していた。
 それが、今年の春から転勤になって、家から徒歩二十分くらいの所に変わった。私は彼を見送ってから、支度をして出勤している。 
 彼は時々嬉しそうに私に言うことがある。顧問をしている部活が強くて、生徒の育て甲斐がある、と。
 数少ない夫婦の会話の中にたまに、仕事をしている彼を伺う事が出来る。数少ない夫婦の会話って…て感じだけど、互いに会話が少ないのだ。

 私はいつも聞く専門で口下手だし…、結婚してから会話がめっきり減ってどうしょうかって言うのが悩みの種だ。
 何を話せば、彼が喜ぶのか私は知らない。
 結婚前はこうじゃなかったんだけと…。

 考えているうちに、彼が勤める高校のグラウンドが見えた。
 比較的近いところで練習声が聞こえる。
それに混じって、大好きな声の怒号が聞こえる。
 しばらく練習風景を眺めていたら、彼が目の前に来ていた事に気づくのが遅れた。

「……買い物?」

 朝から続く不機嫌な声が耳に届く。
 どうやら勝手に見ていたことに怒っているらしい。
 私は肩をすくませて、彼を見上げると謝った。

「ごめん、邪魔ですよね」
「………」

 彼に対してはいつも丁寧語時々砕けた言葉。これは出会ってからずっと変わらないスタンスだ。
 彼はじっとこちらを見ると後ろポケットから財布を取り出して、お札を一枚取り出した。

「……これで人数分の飲み物買ってきてくれないかな?」
「え?」

 突然の事で理解出来ずにいると、フェンスの隙間にお札をこちらに向けて突っ込んできた。

「重いと思うから、そっちに今何人か行かせる。待ってて」

 それだけ言うと彼は、スタスタとベンチの方に戻っていって、何人か生徒に声を掛けた。声を掛けられた生徒たちは、ニヤニヤ笑って彼に何か言っているのが見えた。
 二人立ち上がって、こちらに来ると顔を見てから会釈をして走り去った。

 何か彼が言ったのだろうか…。

 彼の周りにいる生徒たちはまだこちらを見てて、ニヤニヤしている。それを見られては、彼に頭を軽く叩かれて「集中しろ」と注意されている。

「「ちわーす!」」
「お待たせしました!」

 二人男子生徒がこちらにやって来て挨拶してきた。

「…あ、えと。こんにちは」

 お辞儀を会釈程度にし、彼らを見上げると耳が真っ赤になった。
 それから、スーパーまで行ったは良いものの全員分の飲み物の量をみて、到底自分の家の買い物は出来ないと悟った。

 ――これはもう一往復かな。

 差し入れの飲み物を買物袋に入れて、学校へ戻った。
 校門まで来て、部外者の自分が敷地内に入っても良いのか躊躇われた。しかし、前を歩く彼らの両手にはパンパンの買物袋がぶら下がっているため、その手に更にこの重い物を持たせる気持ちにはならなかった。

 ドキドキしながら校門をくぐり、練習する脇を通り抜けてベンチに近づいた。

「お。お疲れ」
「帰りました」
「……ありがとね」
「え、あ。はい。大丈夫です」

 夫婦の会話とは思えないやりとりに自分の中だけで溜め息をつく。
 ひりつく手を伸ばしたり開いたりして、ジンジンする痛みを和らげる。
 すると横からすっとペットボトルが一本差し出された。その手の先を辿っていくと彼が私の手を見ていた。

「痺れた?」
「ちょっとだけ…」

 苦笑すると彼はグラウンドを見つめながらポツリと言った。

「帰り待ってて」

 私にだけ聞こえるように、一歩近づいて耳元で言うと、またスタスタとベンチの方へ行ってしまった。そらから、一人男子生徒に声をかけると生徒たちが集合して部活が終了した。

 あっという間に片付けが終わって、彼に「こっち」と手を引かれて校舎にやって来た。手を繋いだまま校舎に入り、部外者プレートみたいなのを持たされると、更衣室の前までやって来た。
 彼は扉の向こうに消えてしまって、私は壁に背を預けて待った。

「理依(りえ)、今日、晩飯外で食べない?」
「え?」
「まぁ、たまにはさ。良い? 買い物は食い終わってからになるけど」
「良いですよ?」

 呼ばれ慣れない呼び捨てされた自分の名前に、ひどく心臓が高鳴った。ドキドキし過ぎて、心がこそばゆい感覚。
 本当はさっき手を繋いでいた時もなかなかしない事だから、心臓が暴れまわっていた。
 たったこんなことで一喜一憂してしまうのだ。
 結婚して一年も経つのに。

 *****

 どうして今さらこんな豪華なことするんだろう。離婚しようとか言われるんじゃないだろうか。

 学校を出てからも手は離される事なく、一旦着替えに自宅に戻った。
 寝室のクローゼットを開いて、お出掛け用の服を探す。

「はぁ…」

 思わず溜め息が口から漏れて、座り込みたくなる。やだ、行きたくない、と。

「理依、良い?」
「あ、えっと、まだダメ」

 彼はリビングで着替え終わってノックして聞いた。慌てて紺の膝上丈ワンピースを掴んで着替えて化粧をした。
 十五分くらいしてから寝室のドアを開いたとき、姿が見えずに驚いたものの、ソファの端から足がはみ出ているのが見えた。

 前から回り込んで見ると彼は横たわって目をつぶって寝ていた。部活をして疲れているのかもしれない。
 それなのに私が部活を覗き見るような形になってしまって、仕方なしに食事に誘ってくれて、本当に申し訳なく思った。

 朝立っていた寝癖はすっかり消えていたけれど、その部分の髪を思わず撫でていた。

「ん…」

 ゆっくり寝ていたいかもしれない。食事もキャンセルか、そう思って撫でていた手を外してソファから立ち上がろうとした。
 グイッ…
 右手が捕まれて浮いた腰で安定もなく思わず彼の方に倒れこんだ。

「ん……もうちょっと撫でて」

 寝言か、彼は目を開けずに掴んだ右手を頭部に持っていって撫でる仕草を繰り返した。
 けれど、撫でてたら眠りにくいだろう…。そう思って、じっと彼を見つめた。

「そんなに見られるとキスしたくなる」
「え…?」

 真正面の近距離で目を開けて言われ、思わず頬に熱が点る。

「そこで紅くなるかな…。可愛すぎて我慢効かなくなるんですけど」

 言葉の意味に解らずにいると、いつの間にか腰に回っていた腕が引き上げられて、私の上半身が全て彼の方に倒れこむ形になった。
 十秒くらい見つめ合っただろうか、ふと彼が先に視線を反らして上体を起こした。
 その時にはもう腰に回っていた腕もほどけていた。

「行きますか」

 一言こちらに言って私の手を引き立ち上がらせた。



 彼に連れられて行ったのは、今まで二人で出掛けて行ったこともないような高級そうなレストラン。窓の外は綺麗な夜景が広がっている。
 いつの間に予約していたのか、名前を告げて窓際一番端の席に案内された。

 そう言えば、今思い出せば去年も似たような雰囲気の良いレストランに来た気がする。

 前菜を頂いて、スープも味わって、シェフ自慢だと言うメインの牛ヒレのワイン煮込みも美味しく食べた。

 ――最後のデザートは何かな…。

 料理の美味しさに期待が膨らんだ胸は現実を忘れ去っていた。

「理依、あのさ」

 ウキウキしていたはずの気分が、硬い緊張した彼の声で一気にカチーンと固まった。

「……今日で結婚一年目だけど、俺さ、結婚してから正直後悔してたんだ」

 あぁ……
 女の勘って外れないから嫌なのよね。
 彼の言葉に絶望の淵に立たされた私は彼の顔を見ていられなかった。

「俺たち、大学の頃からズルズル来たから、理依の意思を確認してキスもしたことない。手もそんなに繋いだことない」

 自分が強要してしまったがために、彼の気持ちが別の場所に行っても可笑しくはない。
 自然なことだと、今なら理解できる。

「でも今日、理依と手を繋いで歩いてみて、やっぱ良いなって思った。理依が隣にいると良いなって」
「……え?」
「でも、去年理依からプロポーズされた俺って、すげぇ格好悪りぃ…って最近、落ち込みまして…」
「………」
「……んで、出来れば、プロポーズの仕切り直しをさせてほしいんだけど。今度は俺から理依と結婚したいって」

 頭がぼーっとする。
 何を言われてるのかさっぱり分からない。
 私達は愛のない結婚をしてたんじゃないの?

「えっ…」
「こんな情けない俺はやっぱり嫌だ?」
「そ、そんなこと…あるわけない」

 だって、と言葉を続けようとした時だ。
 コトッと目の前に見慣れないビロードの小さな箱がそっと置かれた。

「えーと、教員の給料三ヶ月分はたかが知れてて申し訳ないのですが…もし良ければ、去年渡せなかった物を受け取ってくれますか?」

 箱を開けると、小さな石の付いた指輪がキラキラと輝きを放っていた。指に嵌めようと手にとって見たとき、指輪の後ろに文字が彫られていた。

  Y to R love forever

 シンプルではあるけれど、思っても見なかったことに思わず涙が溢れた。
 愛されていると思わなかったから。

「…余りにも硬い顔だから離婚しようって言われるんだと、これが最後の晩餐なんだって思った」
「ええっ?」
「だって、私ばっかり好きで愛してて、あぁ結婚したことを後悔してるんだって」
「………」
「キスもしたことないし、夜はベッドは一緒だけど、えっと……そう言うのないし、私に触れたくもないんだなって思って」

 ただ頭は分からなくて思ったことをすらすら述べると、彼は顔を真っ赤にしていた。

「本気でそう思ってる?」

 低い声で言われて、ただコクコクと首を縦に降った。
 そこに絶妙なタイミングでデザートがやって来て、私の思考は甘いものに傾いた。

 テーブルの向こうには獰猛な肉食獣の用に瞳を煌めかせる男がいるとは知らずに。


「お腹一杯、なんて言わせない」


 何も知らずに満足して、指輪を眺めて家に帰るとドアを閉めてすぐに後ろから抱き締められた。
 耳元で彼が呟いただけで背骨がゾワッと心地良い感じに駆け上がった。横抱きにされてベッドに投げられると、彼が覆い被さって濃厚なキスが落ちてきた。

 その日、最初で最後の男の人をその身に受け止めた。

 知識だけはあったけど、体験なんてしたこともない事が有りすぎて、ベッドの中で温もりに包まれながら微睡(まどろ)みの中にいた。

「今日、理依が学校に来て、俺はめちゃくちゃ嫉妬したよ。ガキなアイツらがいっちょ前にお前の事見てざわつくんだ。『綺麗なお姉さんが、また来てくれてる』てな。時々ああやって見てたの?」
「うん、こっそり。侑(ゆう)さんの事いつも見ていたいから…」
「うわ……。またそういう事言う…。…すげぇ殺し文句。何回俺を殺せば良いの」
「私に溺れ死ぬまで」
「……白旗だな。もう、襲いたいもん。俺のものってね。マーキングはしっかりしないとね」
「………」
「俺はね、理依の事だいぶ前から惚れてるんだよ。それこそ初めて会ったときから。ずっと」
「ずっと?」
「親にも話してある。お前も知ってる友達にも自慢してる…。だけどね、不安なんだよ。触れられなかった時間、我慢し過ぎて」

 優しく髪を撫でる手にキスをして、私は彼の背に腕を回して、何度も何度も堕ちた。
 彼は私に言葉でちゃんと縛ってくれた。

「      」




―完―
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