シンデレラは夜も眠れず
1、最後の夜
 花束もない。送別会もない。
 今日は、私の退職日。
 私が九条コーポレーションを辞めることを知っているのは、人事部長ただ一人。
「本当にいいんだね?」
 人のいい人事部長が心配そうに聞いてきた。
 私は笑って頷く。
 私が辞めて困る人もいない。
 私の代わりなど誰でもいる。辞めるのが秘書だとしても、秘書も会社の歯車の一つでしかないのだ。
 今日これから会う最愛の人さえも、私の退職については知らない。
 知らせる必要もない。
 明日が来れば、彼と会うことももうないのだから。
 今夜が最後の夜。
 タクシーを降りて彼のマンションに入ると、いつものコンシェルジュが笑顔で迎えてくれた。
「本間様、こんばんは」
「こんばんは、清水さん」
 身体がくたくたに疲れていたが、思わず笑顔で返す。
「九条様はもうお帰りですよ」
「ありがとう。思ってたより帰宅は早かったのね」
 最愛の人、九条建留は今日イギリスから帰国した。
 空港から着いたと連絡をもらったのが二時間前。
 一週間ぶりに会えるのは嬉しい。でも、私は彼に秘密にしていることが三つある。
 一つ目は退職の事。
 二つ目は明日彼の前から居なくなる事。
 最後は……彼の子を妊娠している事。
 彼は私が勤めていた会社の専務で次期社長候補の一人。
 モデルのように背が高くハンサムで、甘いマスクで周囲の人を魅了する。
 その上、頭脳明晰、冷静沈着で非の打ち所がないほど有能だ。
 その彼に気づかれないか不安はある。
 だが、気づかれてはいけない。
 彼は二日後に大企業の社長令嬢と見合いをする。
 見合いの事はまだ健留さんは知らない。
 会長には口止めされている。
 そう、会長は私と健留さんとの関係を知っていた。
 次期社長になるのは彼の悲願だ。令嬢との結婚は彼の祖父である会長から出された条件の一つ。
 私も九条と双璧をなす有栖川家の人間で令嬢ではあるが、愛人の子供だ。
 健留さんには釣り合わない。
 会長も私の事を認めていない。
 私の存在は彼にとって邪魔になる。
 私を愛してるかなんて絶対に聞けない。彼を困らせたくない。
 彼から別れを切り出される前に、彼の前から姿を消す。
 それが私のプライド。
「お帰りなさい」
「ただいま」
 ペントハウス直通のエレベーターを降りると、そこにはまだスーツ姿の彼がいた。
 相変わらず格好いい。ファッション雑誌から飛び出してきたかのようだ。
「フロントにいる清水から連絡があった」
 彼は優しく微笑むと、私を抱きしめてそっと口付けした。
 口付けが終わっても彼は腕の中に私を閉じ込めたままずっと私の様子を窺う。
「目の下に隈が出来てる。ちゃんと寝て食べてるのか?」
 私の頬に触れながら彼は私を正視する。
 何事にも鋭い彼の視線は、今の私にはとても痛かった。
 この質問にはあまり答えたくない。
 悪阻が酷くて食事も喉を通らず、食べても結局は吐く。夜も将来のことが不安で眠れない。
 そんな事言える訳がない。
「そんなにひどい顔してる?今週は仕事が忙しくて残業続きだったの」
 私はおどけてみせる。
 上手く誤魔化せますように。
 絶対に感づかれてはいけない。
「……そういう事にしておくか。週明けには常務はインサイダー取引の疑いで南アフリカ支社に異動になる。綾乃の負担も減るだろう」
 あまり納得はしていなかったが、健留さんは話を変えた。
「……決着がついたのね。良かった」
 これで本当に私の役目も本当に終わりだ。
 健留さんの指示で常務の秘書になって、常務の悪事を暴く手伝いをしていた。
 常務はイギリスの投資家にうちの会社の極秘情報を不正に流していた。
 私と彼が身体を重ねるようになったのも常務の件で頻繁に彼のペントハウスに出入りするようになってからだ。
 健留さんは私の兄の親友で、私が中学生くらいまではよく家に遊びに来ていた。
 彼は私の憧れの人だった。
 高校、大学は私立で寮生活をしていたために彼に会えなくなったが、大学の卒業式に海外出張中の兄の代わりに彼が現れた。
 卒業式の後そのまま卒業記念に彼に久米島のリゾートホテルに連れて行ってもらったが、その時は男女の関係にはならなかった。
 女として見てもらえなかったのが悔しくて、私は母方の姓を名乗って九条コーポレーションに入社した。
 入社当時は総務でずっと事務の仕事をしていて健留さんにも気づかれる事はなかったが、兄が私の事をうっかり喋って彼に同じ会社にいるのがバレてしまった。
 バレてからは秘書課に配属された。
 彼はもう一度私に優しく口付ける。あまりにも慈愛に満ちているキスに、自分は彼に愛されるんだと勘違いしそうになる。
 彼はそのままぎゅっと抱き締めると、私の耳元で困ったように呟いた。
「このままだとここで抱いてしまいそうだ。中に入ろう」
「まずはシャワーを浴びたいわ」
「2人で?」
 彼の瞳がいたずらっぽく笑う。
「いいえ、勿論ひとりでよ!」
 むきになって否定すると、彼はクスクス笑いながら私を抱き上げた。
「結局は一緒に入るんだから、無駄な抵抗だよ」
 確かに、彼の甘い誘惑には勝てない。
 彼の腕の中にいるのもとても安心する。
 これが最後と思うと悲しくてとても切なくなる。
 彼の側にずっといれたらいいのに。
 そう願わずにはいられない。
 でも、彼の隣にいるべき女性は私ではない。
 今夜、彼を独占する私を許して下さい。
 これが最後だから。
 まだ顔も知らぬ彼の見合い相手に謝る。
 そして、お腹の赤ちゃんにも謝った。
 お父さんがいなくてごめんね。
 
 
 
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