恋するバンコク
最悪の失恋
 だれか嘘だと言って、お願い。

 部署関係なく誰も彼もがお祝いムードで、就業時間内でありながら、一向にデスクに座る気配もない。こんなときに限って電話の一つも来ない。だから結も、ほかの人たちと同じようにこのニュースに興味がある振りをして、誰かが給湯室で淹れてきた香りのないコーヒーを片手に楽しそうに笑う振りをしなくちゃならない。

「へぇ、それじゃ瞳さんが大学生の頃からの付き合いなんだ」
 新たに追加された情報に、またしても心がハンマーで粉々に砕かれた。香りもないコーヒーは味もないことが、叫びそうな自分を堪えるためにイッキ飲みした結果わかったことだ。

「そうみたい。ほら、新入社員のとき皆で社長のホームパーティーに招待されたでしょ?あのとき、瞳さんの方がひと目惚れしたんだって」
「たしかに、かっこいいもんねぇ彼」
 受付嬢が受付にいないでどうするの、と思っているのはこの場で結だけのようだ。噂の主である瞳と同じ場所で働いてる彼女がこの場で一番の情報通なのだから、あの鬼部長でさえ持ち場に帰れと言わず、少しはなれたところから腕組して話に聞き入っている。

「もう五年の付き合いらしいわよ」
 本日何発目かの爆弾がまた投下された。手に持っている紙コップがペキ、と小さく折れた。
 信じられない、なにもかも。今日はもう早退しようかと本気で迷っていると、同僚がどこか揶揄する口調で囁いてきた。
「すごいね谷岡君。これでいっきに出世コースじゃん」
 谷岡君。名前を聞いたことで、噴火一歩手前で燻っている熱がぶわっと溢れそうになった。おもわず開きかけた口が言葉を投げなかったのは、当の本人が登場したからだ。

「ただいまもどりましたぁ」
 どこかのんびりとした口調に、細切れに与えられる情報ばかりに飢えていた皆は一斉に食いつく。
「たにおかぁ!」
おまえ上手くやりやがってこの野郎! と同期の男性社員たちが肩に手を回して囃し立てる。
「え、なに? どうしたの」
 谷岡がキョトンとした口調で尋ねる。普段はどちらかというとクールな印象を持つ彼が、ふとしたとき無邪気な顔をすると途端に常より幼く見え、そのギャップが良いと騒ぐ女子社員は多かった。

 谷岡の周囲を取り囲む人の中から、誰かが興奮して答えた。
「婚約したんでしょ! 専務から聞いたんだから」

 婚約。
 さっきから聞こえてるその単語を耳にするたびに、胸の奥がザクリと切り裂かれる気がした。ひしゃげた紙パックを持つ手が小刻みに震える。それでもまだ正気を保っていられるのは、彼の――高志の口から直接答えを聞くまで信じないと決めているからだ。
 同期たちのほか、同じ部署の上司やお局格の女性社員まで。谷岡高志は沢山の人に囲まれて、遠くで立ち尽くしている結をチラリと振り返ることもない。けれど結は高志を一心に見つめていた。社長の大事な一人娘である瞳がなにを言っても、ひとこと彼が嘘だと言ってくれれば、その言葉を信じようと決めていた。過去二年間、ずっとそうだったように。

「なんだ、もう知ってるんだ」
 それなのに、彼は朗らかに笑って頷いた。取り囲む人たちがおおっとどよめく。離れたところで行方を見守っていた他部署の上司たちが慌てたように人垣に近づいていくのは、会社組織の陣取り合戦に思わぬ伏兵が現れたことを知った所為だろうか。
 だけど結にはそんなことどうでもよかった。目の前の風景が砂時計のようにサラサラと色も音もなく抜け落ちていく。

 恋人が、別のひとと婚約した。

 その事実が結を頭の先から二つに切り裂いた。横で同僚たちが興奮したようになにか言ってる。けれど、それもやっぱり耳に入らない。
 ふら、と一歩進むと、自分のデスクに向かった。世界が平和だった一時間前に開いたままだったエクセルとワードを、保存もせずにブツブツと閉じていく。そのままパソコンをバタンと閉めて、なにも考えずにデスクの下に置いた鞄を手に取った。

「どこ行くんだ」
 人垣の内側にいた部長が、振り返って訝しげにこちらを睨む。やたらと目端が利いて、部下の言動を細かくチェックしないと気が済まない男。どうしてこんな人の下で二年も働けたんだろう。今までできたことが、急にもうどれ一つとしてできる気がしなくなった。
 部長の隣で、高志が結を見ていた。悪びれた様子も見せず、その反対隣にいる彼の同期と同じように、「どうしたの?」という表情。そんな顔を見ていると、二人で過ごした二年間は全て結の妄想だったのか、と思えてくる。
 唇の片端が、嫌な感じに上がった。
「辞めます」
 こんな場所、一秒だっていたくない。
 驚くいくつもの声が聞こえた。けれどどれ一つとして言葉として耳に残らず、結はそのままオフィスを後にした。



 当たり前だけど、結の部屋は今朝出て行ったときのままの形でそこにあった。それなのに、まるで見知らぬ国に迷いこんでしまった子どものように、呆けた顔で玄関口に立ち尽くす。アパートの近くを走る電車の音が、真後ろの扉の向こうから小さく聞こえてくる。
指の力を少しだけ抜いたら、重たい音を立てて鞄が落ちた。鞄の下でぐにゃりと潰されたショートブーツが、まるで今の自分のようだとおもった。

 習慣に従って、半ば無意識にパンプスを脱ぐと、リビング兼寝室のスペースに三歩でたどり着いた。壁際に沿って置いたソファにどさりと倒れこむと、視界の先に壁時計があった。十時四十七分。中途半端な時間に部屋にいることが、今まで起きたことが現実だと告げている。
壁時計の下の衣装ケース。その上に飾られた二人の写真。畳んで置かれている男物のパジャマと替えのネクタイ。
いつから浮気なんてしてたんだろう。ぼんやり考えて、ふいに気がついた。
 
 ちがう。私が浮気相手だったんだ。

 悪びれたところのない彼の笑顔。祝福する沢山の人たち。スポットライトの当たる恋は、彼と、自分じゃない彼女のものだった。
目の奥が熱く痛んで、視界が曇る。我慢していた涙がぶわりと世界を滲ませて、ぎゅっと目を閉じて体を丸めた。前髪を強く引っぱる。
 なんで。どうして。なんで。

 実家暮らしだからという彼の言葉を信じて、会うのは専らこの部屋だった。休日は疲れてるから寝かせてほしいと言われれば反論もできず、週末を一人で過ごすことに自分を慣らした。二年間。二年間も。
 
 なにやってたんだ、私。

 後悔に胸が詰まる。悲しくて、ただ悲しくて、まだ裏切った相手を恨む気力も沸いてこない。少し前までは想像もしてなかった現実に溺れそうになっている。
 玄関に放ったままの鞄から、携帯が揺れる音が聞こえる。結はますます体を丸めて、顔を組んだ両腕の中で保護した。



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