恋するバンコク
帰ってきた場所
あつい。

 機内アナウンスが気温は三十二度と告げていたことを思い出す。降りた飛行機と空港ビルを繋ぐ、その通用口の時点で着ていたニットカーディガンを脱いだ。日本より二時間遅れの現在時刻は三時半。三時半といえば、十一月も半ばを過ぎた今では空の端がオレンジ色に滲み出す頃だけど、まだまだ日が照っていた。滑走路近くに立つエンジニアたちの黒い肌と、それよりもポツンと黒い影。

 スワンナプーム空港の天井は近代美術館のようにドーム型になっていて、ななめに編まれた格子の向こうからはガラス越しの青空が覗ける開放的な作りをしていた。動く歩道と呼ばれる水平なエスカレーターが中央を突っ切るフロアの脇に紫色の花や亜熱帯植物の葉が飾られていて、動く歩道の中から周りの風景を写真に撮るひとたちも大勢いる。

 結は日本人のサラリーマンと中国人観光客に挟まれながら、落ち着かなげにキョロキョロと周りを見回した。この空港は結がこの国に住んでいた時にはまだ無かった。子ども時代を過ごした国とはいえ、記憶はあやふやで、手元にはっきりと残る思い出は僅かしかない。その僅かな思い出と一致しない場所にのっけから遭遇して、早くも心拍数が上がる。

 頭上にはいくつもの看板が下げられている。結のペンダントに彫られている文字と同じ、呪文のように見えるタイ文字。きゅっと胸元に下げているペンダントを握りしめた。お守りのように持ってきたペンダントに触っていると、ザワザワしていた心が少しだけ落ち着いた気がする。

 入国手続きを終え外に出れば、そこにいるのは当たり前だけどタイ人ばかりだった。浅黒い肌。彫りの深い顔立ち。冬服を着てる人なんて誰もいない。半袖のシャツに膝丈のパンツ、ペッタリとしたサンダル。待ちくたびれた様子でゲートの柵に顎を乗せている太った女の人。プラカードを持ちながら片手でスマホをいじっている男の人。送迎サービスの呼びこみをするスタッフたち。
 タイだ、と思った。
 ふいに胸の奥がきゅうっと締め付けられた。
 帰ってきたんだ。
 自然とそう思って、肩の力がぬけた。
 


「あれ、こんなところにお店できたんだ。え? こんなアパートあったっけ」
 タクシーの中、ひとりでブツブツと呟く。運転手が怪訝な顔をするのが、じゃらじゃらとお守りが掛けられたバックミラー越しに見えた。
 
 十六年、という月日は街の雰囲気を変えるには充分な年月だった。近代的でオシャレな空港が示すとおり、並び立つアパートも都心にあってもおかしくないような洗練された建物ばかり。当時はなかったBTSと呼ばれる電車もできて、この数年でバンコクがいかに進歩してきたのかがわかる。
駆けずり回って遊んでいたはずの街角もずいぶんと姿を変えている。結が住んでいたコンドミニアムも、もう無いのかもしれない。
 気がつけば、大通り沿いから入ってきたタクシーはずいぶん奥まで進んできている。これ以上乗っていても仕方ないかもしれない。
 しょうがない。あとは歩いて探してみよう。
 下唇を噛んでタクシーから窓を見ていた結は、ふぅと息を吐いて運転手を見た。ここで降りる、と身振りで伝える。十六年は長い。昔はあんなに話せていたタイ語も、咄嗟に出てこなかった。

 バタン、と自分で閉めなければ閉まらないタクシーの扉に、また勝手の違いを感じる。さっきは帰ってきた、と感じたのに、それは勘違いだったかもしれない。普通に、外国に来た日本人がとまどってるだけ。そう思ってトランクケースの取っ手をギュッと握った。
 辺りを見渡す。椰子の葉が塀のあちこちからワッサリと伸びている。埃を被ったままの車が向こうから縦に揺れながら走ってくる。その脇を走るバイク。荷台を改造してシートを敷いた軽トラックが脇を通り過ぎる。シーローと呼ばれる定額タクシーだ。あぁあれよくお母さんと乗ったな、とぼんやりと思う。じっと立っているだけで汗が滲んだ。
 覚えてることが少しと、忘れてることが沢山。十六年ぶりなんだ、こんなものだろう。
 記憶と合致してるものを見つけては、また少し嬉しくなる。固く握りこんでいたトランクを掴む手の力を緩めて、もう片方の手でペンダントに触れた。
 声が掛けられたのはその時だ。

「ニホンジンのカタですか?」
 独特の訛り。振り返ると、二人の男がこちらを覗きこんでいた。ビクリとして、咄嗟に声が詰まる。
 男たちは笑顔を浮かべ、無意識に身を反らした結にさらに近づく。
「ナニ探してるの?」
 あ、と喉からかすれた声が出る。脇をまたバイクが一台通り過ぎた。車道を挟んで反対側では、繋がれてない犬のそばを老婆がゆっくりと歩いている。ひと気がないわけではない。

「僕たち、ニホンに行くんデス」
 男の一人がにこにこ笑って言う。もう一人がすかさず、
「コウヨウを見にイキマスね!」
 そう言って身を乗り出した。
 ニホンに行く、紅葉を見に行く。
 言われたことが脳に浸透して、それまで上がっていた肩の力がわずかに緩む。
「そうなんですか」
 それだけ言うと、男たちは楽しそうに顔を見合わせた。
「チョー楽しみです」
 屈託なく笑う男たちの様子に、ふっと喉の奥で笑うと知らずななめに反っていた体を正面に向けた。
 チョー楽しみ、という言い方がどこか微笑ましかった。
「楽しんできてくださいね」
 男たちは嬉しげに頷いて、そうかと思ったら悲しそうに眉を下げた。
「でも、僕たちお金ワカリマセン」
「お金?」
「ニホンのお金、種類多いデスネ」
「もし良かたら、ニホンのおサツ、見せてくれマセンカ? 参考にしたいデス」
 お願いシマス、と男たちはじっと結を見る。
 え、どうしよう。 
 困惑しつつ、反射的に肩に下げている鞄をチラリと見る。さっきまで日本にいたから、この鞄には当然日本円が入った財布がある。

 見せるくらいなら良い?
 ――でも、ちょっと怪しくない?
 けど、本当に参考にしたいだけかもしれないし。
 ためらいが伝わったのか、悲しげだった男たちが顔を見合わせた。
 その瞬間、二人の表情が消える。

 男の一人が結を見た。その目は一瞬前とは違い、険しく鋭い。ぞっと背中をつめたいものが這った。
 男がこちらに近づく。まずい。身を引こうとして、歩道の段差に取られてトランクが動かなかった。男がなにか言う。早くて聞き取れないタイ語。太い腕がこちらに向かって伸びてきた。どくん。心臓が大きく冷たく鳴った。

「ヨッスィ(やめろ)」

 後ろから声がかかったのはその時だ。結を囲むように立つ男たちが、眉間に皺を寄せて声に振り返る。

「タムアライユー(なにしてるんだ)」

 若い男だった。
 結と同い歳くらいだろうか。カフェオレを思わせる褐色の肌。短く切られた黒髪。意志の強さを表すような凛々しい眉のすぐ下、彫りの深い目はどこか甘い雰囲気を帯びていた。
 そのひとは大股二歩で結たちの傍まで来ると、驚いている男たちを見て、そして結を見た。頭一つ半ほど高い相手を、結もぼうっと見返す。

 かっこいい。

 そんな場合でもないのに、反射的にそう思っていた。
 その人が男たちに向かってなにか言った。険しい顔をした男たちがなにか返す。手が痛いくらい強く鞄を握りしめていた結は、じっと事の成り行きを見つめていた。 

 ふいに、グイッ。強い力で抱き寄せられた。驚いて顔を上げるけれど、彼が結を見ることはない。
「カオペンフェーンポム!」
 カオペン……なんだっけ、それ。真っ白になっている脳を言葉が横切る。
「パイスィ!」
 今のはわかった。思い出せた。
 行け、だ。

 結の肩を抱いたまま、彼が男たちを睨む。男たちは目を見交わすと、じろっとその人を一瞥して背を向けた。のろのろと歩いていく男たちが、恨みがましげに何度か振り返ってきた。

「行ったね」
 ふいに聞こえたのは日本語だった。男たちとはちがう、イントネーションも完璧な。
そう言って、彼が肩を掴んだまま結を見下ろす。
「あの、ありがとうございました」
 今さらのように心臓が騒ぐ。深くおじぎをしたら、ペンダントがぶらりと揺れるのが視界に映る。
 顔を上げると、彼は屈託なく笑った。
「旅行者だよね? 日本語で話しかけてくる外国人には気をつけたほうがいいよ」
 そうですね、と言いかけて言葉に詰まる。それを言うなら、今まさに向かい合ってる彼はどうなんだ。一難去ってまた一難、なんだろうか。
 思っていることが顔に出たのか、彼は苦笑して手を振った。
「僕は昔から勉強してるだけだから。信用してもらって大丈夫ですよ」
「あ、そうなんですね」
 慌てて言った。助けてもらっておいて疑っているのを見透かされて、取り繕うように笑顔を浮かべる。
 彼は気にした様子もなく、
「これよかったら」
 そう言ってポケットから小さなケースを取り出すと、一枚の紙を差し向ける。結は染み付いた習慣に従って両手で受け取ってお辞儀をした。
 中央に書かれた名前を読み上げる。
 
 Tawan Palahan

「タワン、パラハーン?」
 で、合ってるんだろうか?
 たしかめるように顔を上げると、目で頷かれる。
「あ、結、です。佐野結」
 名乗ってなかったことに気づき、急いで自己紹介した。するとタワンはなぜか結をじっと見つめて、
「ユイ」
 なにかを確かめるように呟いた。それまでの朗らかな表情とはちがう、どこか真剣な眼差しに気圧される。自分でもなぜそう感じるかわからず、とまどいを退けるように口を開いた。
「あの、ジャスミン・コンドミニアムって知ってる? この近くのはずなんだけど」
 そう言うと、タワンの目が丸く見開かれた。
「ジャスミン・コンドミニアム?」
「もしかしたらもう無いかもしれないけど。私が子どものとき住んでた建物なの」
「君、バンコクに住んでたの?」
 彼が驚いたように尋ねる。結は頷きながら、当時を思い出して無意識にうっすらと笑みを浮かべる。
「そうか……」
 彼は憂うように眉を寄せた。
「残念だけど、そのコンドはもう無いよ。今は僕の職場になってる」
「職場?」
 そこだよ、と名刺に書かれた場所を指で示した。手の中の名刺にもう一度視線をやる。
 右上に青く印字された、Sawan Faa Hotelの文字。

 サワン・ファー・ホテル。
 ホテル?

 さらに見ると、タワンの名前の下には英語でManagerと書いてあった。結と同年代に見えるこの青年は、このホテルのマネージャー――支配人ということなんだろうか。
 顔を上げると、タワンは歯並びの良い白い歯を見せて笑った。
「良かったら見に行ってみる? といっても、すぐそこなんだけど」
 タワンが目で指し示す場所を振り返る。

「……これ?」
 ごくん、と息を飲んだ。

 生い茂った椰子の葉の隙間から、白い砂壁が覗く。強い日差しを受けて輝く門の向こうに、一段が高い白い階段が、等間隔に二つ置かれた焼き物の象が立つロビーへと続く。

 Sawan Faa Hotel
 
 砂壁には青い文字でそう書かれていた。
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