恋するバンコク
予期せぬ来訪者
 ベルガール。
 チェックインしたお客の荷物を客室へと運ぶスタッフのことを指す。自分の体の幅より大きなトランクケースをひょいと担いで客室とロビーを行き来する仕事はなかなかの体力仕事だ。サワン・ファー・ホテルのホテルマンたちが一番最初に就く仕事だという。
 教えてくれたのはルームメイトのアイスだ。初日に結のトランクケースを運ぼうとしてくれたアーモンド形の目をもつ彼女は、結の三つ下の二十二歳。年下だけど、テキパキと仕事をこなす彼女は姉のように結の世話を焼きたがる。ネイティブ同士で話すときよりもゆっくりとしたタイ語で結に話しかけ、それでも結がわからないときには英語で言い換えてくれる。時おり語尾にnaが混じるタイイングリッシュは、なにを話してもどこかのんびりとして聞こえた。

「ユイ」
 その日いつものようにお客の荷物を部屋に運び終えた結は、ロビーに戻る途中で声をかけられた。振り返ると、パリッとしたブラウス、黒ジャケットに蝶ネクタイ姿のタワンが歩いてくる。

 ホテルマンは皆、今の結と同じようにタイの民族衣装に似せた制服を着ていた。青いサテン地のワンピースはタイトなロングスカートになっていて、これでは歩きづらいからと側面に大きなスリットが入っているデザインに、最初は慣れなくてまごついてしまった。右肩から左の腰に向かって襷のように下げられているのは、タイシルクで作られた布だ。胸元にあたる部分に造花の蘭が飾られている。男性スタッフも同じ配色の民族衣装を着ていて、外国に来てるんだと訪れた人たちが実感する演出に一役買っていた。
 
 そんな中で、支配人であるタワンだけは細身の黒ジャケットに黒ベストと、執事のような恰好をしている。蝶ネクタイなんて日本人男性の半分くらいには似合わなそうなアイテムも、彼の堀の深い甘い顔立ちにはよく似合っていた。それに孔雀をおもわせるカラフルな集団の中、一人だけモノトーンで身を固めた姿を見ると、スタッフの中で彼だけが特別な位置にいるんだと実感した。

「ワンニーセッレオチャイマイ? ギンカオガンマイ? (今日はもう終わりだよね。ご飯でもどう?)」
ここで働くようになって十日。段々と当時の言葉を思い出してきた。錆付いてもう動けないと思っていた自転車を根気良く手入れして、ぎこちなく再発進させたような、くすぐったくも嬉しい感覚だった。
「ディーナ、パイティナイ?(いいね、どこに行く?)」
 タワンが夕飯に誘ってくれるのは今夜で五回目。支配人として忙しく働くタワンがまめに時間を割いてくれる意味を、周りのスタッフはすっかり勘違いしているようだ。今もタワンの後ろでアイスがニヤリと意味深に笑いかけてくるけど、気づかないふりをしてタワンに頷いた。
 タワンが結を食事に誘うのにはちゃんとした理由がある。だから結も迷うことはなかったのだ。



 BTSと船を使って一時間ほどいくと、チャオプラヤー川に着く。暁の寺と呼ばれるワット・アルンや王宮があるのもこの川沿いで、だからここはバンコク随一の観光スポットだ。
 川沿いには多くの有名ホテルが立ち並んでいて、古の建造物とは逆の近代的な美しさで観光客を魅了する。リバーサイドレストランには夜風を楽しみながら食事をするたくさんの観光客の姿が見えた。

「あんまりタイっぽくない造りね」
 今夜タワンがチョイスしたのはパッジャーン・ドッマーホテルだった。タイ語で「月の花」という幻想的な名前の通り、高い天井からまっすぐに下りている球体の薄黄色照明が満月を思わせる。同じ形の間接照明が室内を最低限の灯りで満たし、ガラステーブルの上に置かれたランの花器を優しく照らしていた。
 窓際の席に案内されるやいなや、結はタワンに言った。この辺りに宿泊する観光客は、漠然とイメージする「タイらしさ」をその内装にも求める。大きな葉の熱帯植物、伝統服に身を包んだ女性が奏でる古典楽器、アジアンテイストなクッションとソファ、など。タワンと回った過去四回のホテルにはそういったエッセンスが多少なりともあった。
けれど、このホテルはそういうものを意図的に排除しているように思えた。だいたい名前からして「月」の花だ。「暁」の寺院と呼ばれるワット・アルンのお膝元で、真逆のモチーフで挑むなんて挑戦的とすら思える。
 なんてことを思えるくらいには、結もこの辺のことを勉強するようになっていた。ほとんどタワンの受け売りだけれど。
タワンも内装をぐるりと眺めながら頷く。
「タイはツーリストのリピーターが多い国だからね。何度目かの旅行客は、以前とは違った趣も求めに来るかもしれない。そういう狙いだと思うよ」
 店内が薄暗いため、端にクリップでペンライトが点けられたメニューをスタッフが差し出す。品目と値段を見ているタワンの目は真剣だった。そんな様子をほほえましく思いながら見る。
 
 申し訳ないんだけど、ユイに給料を払うことはできないんだ。
 
 初日、タワンは眉を下げてそう言った。
 タイは外国人の労働ビザが厳しく、取得するにはいくつもの条件が必要だ。もちろん結はその条件に満たないから、正式に従業員として雇うことができない。結自身、ホテル代わりに住まわせてもらえればありがたい、くらいのものだったから、そんなことを改まって言われて却って面食らったくらいだった。

「だけど代わりに、僕ができるだけご飯をご馳走するよ。好きなものを食べに行こう」
 そう言って笑うタワンに、それは悪いと首を横に振る。
「いいよ、宿を提供してもらってるだけで充分だし」
 いやそれじゃ、でもほんとに、というような応酬が何度かあった後、タワンがひらめいた、という顔で告げた。
「そしたら、僕のビジネスに少し付き合ってくれないか」
「ビジネス?」
 そう、とタワンはニコニコして続けた。
「競合ホテルがね、どんなサービスをしてるのか、実際に見に行きたいんだ。男一人じゃディナーコースを頼みづらいだろう? 一緒に行ってくれるとすごくうれしい」
 本当にうれしそうにタワンが言うから、結もそれ以上断れなかった。
 それに、仕事の手伝いができるのであれば、結もその方が気が楽だった。

 そんなわけで、今夜もタワンとディナーという名の偵察に来ている。
 小さな音をたてて薄黄色のシャンパンが注がれる。ナン・パッジャン――月の水だって、洒落てるねと心の中で呟く。華奢なシャンパングラスに注がれる薄黄色の液体は、間接照明の灯りで艶めいて見える。たしかに月を溶かした水のようだ、とぼんやりと思った。
「ユイ」
 声に顔を上げると、シャンパングラスを片手にタワンが笑っていた。
「ワンニーゴコップンカー」
 ワンニーゴコップンカー――今日もありがとう。

 日本語のお疲れさま、という言葉に相当するタイ語はない。代わりにタワンはいつも感謝の言葉を口にした。そんな風に相手を労うタワンの性質が、すごくいいな、と思う。
 夜景を背景にシャンパンを持つしぐさが似合う、褐色の肌と夜の色をした目を持つひと。優しくて、仕事もできる。こんな人とこんな風に一緒にいることが、十日経った今でも現実味がない。
「私こそ、ありがとう」
 結も同じ言葉を口にしながら、そっとシャンパングラスを合わせる。音もなく重なったグラスの中で、シャンパンがとろりと揺れる。

 これは一時の夢だ。
 傷ついた結に神様が用意してくれた、つかの間の夢。いつでも終わらせることのできる夢。
 だからのめり込まないようにしないと。でないとまた、悲しいことが起きてしまうから。

 タワンが穏やかに笑う。自分も笑い返す。心地良い風が、窓から入ってくる。ふと目を川面に向ければ、いくつもの電球を点けたクルージング船が水面を揺らして行き交っていた。夜を映した真黒な水面が、船とホテルのライトを映して星を浮かべたように光る。
 この時間が心地良かった。上司のような、友だちのような。曖昧な関係のままたゆたっていたい。そうおもって結は微笑んだ。



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