恋するバンコク
変わりはじめる
 朝出るときはリセットされた爽快な気もちのまま廊下を歩けた。スタッフ用通用口からホテルに入ったときも、口元には笑みが浮かんでいた。だけどロビーに出て、スーツに身を包んだタワンがカウンターに立つその姿を見た途端、唇が逆方向に向かってぐにゃりと歪んだ。
 昨日手を握られたことが脳裏に浮かび上がって、ギュッと両手の拳を握る。
 あのことにどんな意味があるかなんて考えるのは無しだ。外人だから、ふいに結には不慣れなスキンシップを取ることもあるだろう。そう、きっとそれだけ。深い意味はない。
 一度下がった口角を元の位置まで押し上げ、にこりと笑みを浮かべる。中国人の団体客がツアーコンダクターに連れられて押し寄せてきたところだった。チェックイン前に先に荷物だけを預けるお客への対応に、否応なく忙しくなる。

「お客様、こちらからもどうぞ」
 ふいに隣から声が聞こえて、一瞬トランクケースを受け取る手が止まる。混み合う荷物用のカウンターに、タワンがスッと入ってきた。周囲を気にして目礼するだけに留めて、部屋番号と名前を書いた引換券をお客に手渡していく。

「ユイ」
 団体客がいなくなってカウンターの周辺が落ち着くと、タワンが結に声をかけた。一瞬空白が浮かび、首から上の表情を変えずに振り向く。
「はい」
 タワンは少し困ったように首を傾げて、それなのにどこか笑いを堪えているような顔で自分も首筋を撫でた。
「そんなに警戒しないで」
 してません、と心の中で答える。
 カウンターに片手を突いて、タワンが結を覗き込むように見つめる。隣に立つタワンにそんな体勢を取られると、壁に近い結は逃げ道を塞がれたような気持ちになって焦ってしまう。
「今夜また、夕飯をご馳走するから」
 いつものご飯一緒にどう? という誘い方とはちがう、まるでもう決まったことのように言われた言葉。反射的に首を振っていた。
 タワンは瞳を動かさないまま、唇の端だけでクスリ、と笑う。
「駄目。これは上司命令だよ」
 上司命令。
そんな風に言い切られたことに驚いて相手を見返す。
 
 タワンの唇にはいつもの朗らかな笑みが浮かんでいる。それなのに眉下までかかる濃い黒髪の、その下からのぞく濡れたように光る目に、ギクリと体が強張った。
 優しさよりは強さが前面に溢れている目。マナーに欠ける観光客がスリッパで五つ星レストランに入ろうとするのを諌めるような、丁寧な中にも反論を許さない眼差しだった。 
 タワンは結を目の端に捕えたまま、優雅なしぐさできびすを返した。伸びた背筋、皺ひとつない黒いスーツの後ろ姿が磨き上げられたフロアを堂々と歩いていく。野生の豹を思わせるそのしなやかな背中を、結は呆然として見送っていた。
 いったい、なにが起きたの?



帰らなくちゃ。

 終業時刻が迫った結の頭にあるのは、その思いだけだった。あれからタワンとは何度か目があって、そのたびにニコッと微笑まれた。向けられる笑顔は慣れ親しんだ、健やかで爽やかな笑みにまちがいない。
 それなのに目が合うたびに、その場にいることを確認されているような気がして、一日中落ち着かなかった。一体どうしたというのだろう。客観的に言って、食事に誘われた、それだけなのに。
 そこになにか含みを持たせて慌てるのは、よくない傾向だ。全部自分の気のせい、そうに違いないのに。
 いや、そうでないと困る。
 
 ごちゃごちゃ考える自分を持て余して、とにかくもう今日は帰ることにした。それが一番正しいように思えた。
だから定時になると、帰巣本能に駆られた燕のように素早くカウンターを後にした。

「あれ、もう終わり?」
 廊下ですれちがったアイスが驚いたように振り替える。片手を上げてそれに答えると、スカートを少し引き上げて繰り出す一歩を大きくした。スリットが深く入ってるとはいえ、ロングスカートはこういうときに動きにくい。
「そんなにたくし上げたら、パンツ見えちゃうよ」
 給湯室を横切ったとき、ふいに隣から声が聞こえてビクッと立ち止まった。
 ゆるく両手を組んで壁にもたれかかっていたのはタワンだった。すでに制服を脱いで、麻のシャツにベージュのパンツを履いている。口元にはどこか楽しげな笑みが浮かんでいた。
「あ……」
 まっすぐ宿舎に戻るところを見られて、どう言えば良いのかわからずヒールの先で廊下を擦る。タワンはゆったりしたしぐさで壁から身を起こすと、結の前まで来た。
「今から行くところは、どっちかっていうと私服の方がいいかな。……その格好も刺激的で素敵だけどね」
 スッと一瞬、タワンの目がいまだ握りしめていたままのスカートの裾を見る。その様子を追うように視線を下げれば、スリットが開いて片方の太腿が露になっていた。
「!」
 慌てて手を離すとスカートの向きを直す。
「なっに言って……!」
 あっという間に頬と耳が熱くなる。タワンのクスクス笑う声が恥ずかしさを更に煽った。
 これは本当にあのタワンだろうか。こんな意地の悪いこと、彼はしないはずなのに。状況に着いていけず、ひたすら赤くなる自分が情けない。
「ほら、着替えておいで」
 とまどう結を逃がすように、タワンは笑いながらポンと背中を押す。結のよく知る笑い方で。優しく仕事熱心な、友だちみたいな上司。
 一体どちらが本物なんだろう。検分するようにジロリと見上げる結の視線をなんとも思ってないように、タワンはニコニコと笑っている。
「……わかった」
 小さな声で頷いて、それで気持ちを切り換える。
 昨日のもさっきのも全部、気のせいだった、ということにしておこう。どのみち選択肢はないのだから。
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