恋するバンコク
信じること
 バルコニーに面したテラス席でアフタヌーンティーがサーブされている。ワゴンが食器を運ぶ小さな音が、緩やかに流れるクリスマスソングに混ざって聞こえた。互いの感覚を離して置かれているソファ席の間にある丸テーブル。テーブルに飾られる花は、今日からガラス小瓶に生けられた赤いポインセチアになった。すぐ隣にキャンドルも置かれて、クリスマスムードを盛り立たせる。そういえばアフタヌーンティーも、先週からクリスマスメニューになっている。

 見慣れたロビーの小さな変化を、改めて丁寧に目で追う。大きいものから小さなものまで、お客を飽きさせないようホテルは常に変化し続けている。それぞれの部門リーダーが企画したものを取りまとめて、最終的にホテルをコーディネイトするのは支配人であるタワンだ。

 今も、タワンはロビーの隅で彼の父親ほどの年齢のセールスマネージャーとなにか打ち合わせしている。セールスマネージャーのクリサダは、客室やレストランの使用を企業や旅行会社に売り込む営業マンだ。あまり表に出てくることはないけど、あちこち飛び回って忙しいタワンと話をするためにわざわざ来たらしい。
タワンの横顔は真剣で、昨日結に見せた甘さはひと欠片もない。

 意見が割れたのか、クリサダが少し苛立ったように眉を寄せる。タワンは冷静に首を横に振った。チェックイン客が途絶えている時間とはいえロビーをお客は行き交っている。どちらも声を荒げることはなく、けれど互いに一歩も引かない様子だった。
 やがてクリサダが渋々といったように頷く。途端にタワンは破顔して、気安い雰囲気でクリサダの肩を軽くたたいた。クリサダは諦めたように苦笑して、その後は穏やかに笑い合う。
 そんなやり取りを、結は息を詰めて眺めていた。
 
 年上のスタッフたちの間を渡り歩き、信頼を築いていくこと。並大抵の努力ではできないだろう。決定権は彼にあっても、それは着いてきてくれるスタッフがいてこそ成り立つ。
 きっと結の知らない間に沢山のことがあって、それが今のタワンを作っている。彼の人生の中で、結が不在だった時間は長い。それなのに。
 
 君が僕にくれたものはたくさんあるんだ。たとえ離れていても。

 そんなことを言うから。
 あたたかくて切ないものが、この胸の奥を流れていく。
 結の知らない時間の彼を見てみたい。そんなふうに思ってしまう。

「ユーイ」

 アイスが後ろから声をかける。振り返れば、案の定ニヤリと笑って、
「そろそろこっちに戻ってきてもらえる? 一緒にお仕事しませんかぁ?」
 からかうようにカウンターへと引き込む。結は急いで言い返した。
「別に私は」
「いーからいーから。ちゃちゃっと動こうね、はいこれ番号札」
 数字の書かれたタグを渡されて、上から網をかけたトランクケースの山から同じ番号札を探す。チェックアウト後も荷物を預かってほしいと言うお客の荷物は、一時的にここで管理していた。
「結」
 名前を呼ばれ、振り向いた先にいる人を見て体が強張った。けれどすぐに、再び荷物を探し出しトランクを引っ張り出す。少し離れたところで待っていたフランス人家族へと、荷物を引き渡す。
「またのご滞在をお待ちしてます」
 両手を胸の前で合わせるワイのポーズ。小さな子どもが真似をして挨拶するので、微笑んで見送った。
 ドアマンが扉を開いて、家族を見送る。一瞬だけ暑い風が室内へと入ってきた。

 結は笑みを消して、後ろを振り返る。半袖のワイシャツにスーツのパンツをはいた高志が立っていた。
「もう話しかけないでって言ったはずよね」
 高志はウッと詰まった顔で目を伏せた。
「すまない」
 アイスが高志の後ろで、興味津々という顔でほかのスタッフと目配せしあっている。やめて、ほんと。
「悪い、あの」
 どこか切羽詰まったように高志が髪をかきあげる。付き合っていた時には見たことのなかったその様子を、少し不思議に思って見ていた。
「瞳を見なかったか? 今朝起きたらいなくなってて」
 予想外の言葉だった。おもわず開きかけた口を遮るように、隣からそっと肘を引かれた。
「お客様、どうされましたか」
 優しく、しかし牽制を多分に含んだ声音。口元は笑っているのに、目元はどこか酷薄に眇められている。結の肩に軽く触れて、盾になろうとするように後ろへ押しやる。

 タワン。

 高志は突然割って入ったスタッフに怪訝な顔を向け、その後問うように結を見た。結はなにかを飲み下すように喉を上下させ、タワンの後ろから一歩前に出た。
 ふっと、体の力が緩んで、あぁ緊張してたんだな、と自分の状態を知った。
 だけどもう大丈夫。隣に、タワンがいること。それだけで、結は背筋をまっすぐに伸ばせる。
「申し訳ございませんが、お連れ様はお見かけしておりません」
 淀みない声で答えた。
 高志はなにかを噛みしめるように何度か浅く頷いた後、小さな声で言った。
「いや、知らないならいい」
 くるりと背を向ける高志を、タワンが呼び止める。
「お客様」
 怪訝な顔で振り返る高志に、タワンは微笑みを唇に浮かべたまま告げた。
「今後なにかありましたら、私にご相談ください」

 彼女に話しかけるな。

 丁寧な物言いにこめられたメッセージは伝わったのか、高志は一瞬眉間に皺を刻んでそのまま結に視線を移した。結は目をそらすことなく見つめ返した。

 高志はタワンに言葉を返すことなく、そのままきびすを返すと外に出ていった。その様子を見届けて、大きく息を吐く。
「ユイ」
 労わるよう声をかけるタワンに、微笑んでみせた。
「大丈夫。ありがとう」
 カウンターへと戻ろうとすると、タワンが顔を寄せて囁いた。
「なにかあったら僕を呼ぶんだよ、ノーンラッ」
 ぼ、と顔が熱くなる。

 ノーンラッ――愛する君。

 赤い頬でタワンを睨みつけると、タワンは平然と笑う。そして再び屈みこんで小さな声で言った。
「好きなだけ抵抗してもいいよ。僕、諦めないからね」
 唖然とする結に向けられる、甘い笑みは傲慢なほどだった。
「言ったでしょう、君を必ず手に入れるって」
「困ります」
 おもわず大きな声が出た。それでも自分の胸で高鳴るこの鼓動よりは大きくない。

 前にも同じことを言われた。だけどあの時は彼のバックボーンなんて知らなかった。
 成功した両親に育てられた王子様みたいなひと。そんな人が本気でなにかを欲しがったらどうなるのか。
甘い引力に引き寄せられたい衝動に、必死で抗う。
「いいから仕事に戻ってください、支配人」
 強い口調で言うと、タワンはクスリと笑って去って行った。

 カウンターに戻ると、案の定周りで見ていたアイスたちから質問攻めにあった。真っ赤になった結は、トランクの積まれた台車を引っ張ってその場から逃走した。
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