いきぬきのひ
 美味しいものの腸詰めになった身体をもてあましつつ、雲間から少しだけ顔を出した太陽の日差しに目を細めていると、背後から心配そうな声がした。
「本当に職場、戻らなくても大丈夫?」
「はい! いつも余裕で仕事してますから」
 大ウソ。本当の所は大丈夫どころか、今週締め切りの仕事がわんさか待ち受けている。
 でも、一年半ぶりに逢う人と、たかだか一時間そこらで話を切り上げる自信はなかったから、大顰蹙を買うのも覚悟で午後休を取ったのは、口が裂けても言わない。
 でも。正直、明日が怖い。
「幸田さんこそいいんですか? 私はちゃんと午後休取って来てますけど」
 にわかに彼の眉間に皺が寄ると、口元に手を宛がって何やら思案顔をする。彼が非常に面倒くさがっている時、特有の癖だ。
「ほら。今からでも遡りで申請できるんですから。あの秘書の女の子、なんでしたっけ」
「亜百合さんの事? アレはいいよ。どうせ書類一つだって、まともにできやしないし」
 確かに、彼女の仕事っぷりは、悲惨の一言に尽きたけど。
「まさか、一年以上も経つのに、まだ、ですか?」
「この前もさ。このデータ、メインサーバのファイルにまとめて保存しておいてって、メールで添付ファイル送ったらさ。いきなりデータのプリントアウト始めて、紙ファイルに綴じだした」
 どんな箱に詰めて育てりゃ、ああいう箱入り娘に育つのか、と。彼は、ぶつくさ文句を言っている。でも、まぁ。彼の気持ちもわからなくはない。
 私も、今まで仕事の引き継ぎは、散々してきたけど。マウスの扱い方からスタートした人は、後にも先にも彼女だけだ。もしかして私、パソコンインストラクターでも食べていけるかな、と当時は真剣に考えたほどだ。
「……でも、彼女の煎れた紅茶は、すごく美味しかったですけどね」
 ホントにそれだけだよ、と彼は呻いた。
「そうだ! なら、総務部の比奈子さんに電話して下さい!」
「あとで、いいよ」
「駄ぁ目ですっ! 今してっ!」
 私の上げた大声に、なぜか妙に期待したような周囲の視線が集まる。
 自分の発した言葉の別の意味に思い至って、私は真っ赤になり、彼は慌てて携帯に手をかけた。案の定、何件かの懸案に掴まったらしい。とりあえずメールして、と何とか逃げようと躍起だ。
 相変わらず忙しくしているようだけど。そういえば、論文は書けているのだろうか。
 つまらない利権争いと業務に絡め取られて、研究まで手が回らない、と。向かうところ敵なしの彼が珍しく弱音を吐いたのは、私が研究所を去る前日のこと。
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