元教え子は現上司
別れのとき
 定時より一時間ほど早く会社に行く。予想通り、いつも出勤が遅い碧の部署の人たちは誰も来てなかった。

「長谷さん」

 管理部門は、既にほとんどの人が出社して仕事を始めている。長谷もその一人だった。碧は長谷のデスクまで行くと、いくつもの書類を広げている長谷に声をかけた。

 長谷は碧を見ると疲れた顔で笑って、
「ちょうどよかった。僕も久松さんと話したかったんですよ」
 碧が隣に座ったのを見ると、碧の方に体を向けた。

「遠野のこと、なにか聞いてますか? 昨日突然、辞めたいと言ってきて」
 とまどったように眉間にシワを寄せた。
「あいつは若いけど、業務を途中で放り出すような奴じゃない。なにか理由があると思うんですよ」
 碧は長谷をじっと見た。
 
 暁、信頼されてるんだな。

 自分よりも年上の人たち相手に信用を勝ち取るために、彼は今までどれほどがんばってきたんだろう。
 やっぱりいい男になったんだな。そう思うと、こんなときなのに笑みがこみ上げてくる。

「遠野さんは辞めませんよ」
 唇の端に笑みを残したまま、碧は言った。長谷がかすかに目を見張る。
 碧は黙って手元の封筒を差し出した。

 退職届

 封筒にはそう書かれていた。長谷が身じろぎして、椅子が小さく鳴る。
「久松さん」
「私の所為なんです、遠野さんはが辞めようとしてるのは。私が辞めればそんな必要なくなります」
 長谷は途方に暮れたような顔で碧を見ている。黒板の前で、解けない問題を目の当たりにした生徒みたいに。

「遠野さんの辞表を取り下げてください。お願いします」
 座ったまま深く頭を下げた。数秒そのままにしていると、やがて久松さん、と小さな声が返ってきた。

 顔を上げると、長谷は眉をしかめて、
「どんな理由があるかは知りませんが、あなたが辞めることを遠野が望んでるとは思えません。あなたの採用を推したのは彼なんですよ」

 人事は他の人を採りたがってたけど、どうしても俺、会いたかったんだ。だから面接通してもらった。

 暁の言葉を思い出す。長谷があっと顔を強張らせた。長谷と碧の近くを通った経理の女性が、驚いたように振り返る。

 碧の目から涙が落ちていく。ぱた、ぱた、と音もなく。

「仕方ないじゃないですか」

 涙を拭うこともせず、碧は呟いた。

「どうしても守りたいんです。愛してるから」

 いつもこんな方法しか選べない。傲慢だと思った。不器用だと反省もした。
 だけど他にどんなやり方があるんだろう。だれか教えてほしいくらいだ。

 三十一歳にもなって、恋のひとつもうまくできない。
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