ここにはいられない
1 影と初恋




月に雲がかかる時に似ていると、いつも思う。

音もなく世界がふーっと暗くなってその気配に振り返ると、彼がいる。
それはいつも突然で、ほとんど足音もさせずに現れて、どういうわけかタイミングもいい。
まるで私の影からすうっと現れたみたいに。

振り返って私の視界に入るのは濃紺の作業着のファスナー部分だけ。
それだけですでに誰かわかっているのだけど、そこからスルスル目線を上げて一応確認する。

高い位置にある黒い目は、やっぱり私を映していない。
何の感情も浮かべないまま給湯室のドアを開け、裏側に入り込んでいたストッパーをドア下の隙間に差し込んで靴先でトントンと押し付けると、また雲が流れるように戻っていく。

「どうもありがとう!・・・ございます」

両手に空のポットを抱えた私は、少し距離の開いた背中に向かって声を張った。
彼との距離感が掴み切れない私は、敬語を使うべきか普通に話していいのか迷って、いつも語尾が曖昧に滲む。

少しだけ振り返った彼は、了承の意味のこもったまばたきをひとつして、今度こそさっさと廊下の角を曲がっていった。

作業着の堅い生地で覆われた背中が見えなくなると、肩をストンと落とすように息を抜く。

ドアなんてポットを一度床に置いて自分で開けたって構わないのに。
それをいちいち開けてくれるために追い掛けて来てくれたなんて。
せっかくの親切心なんだから、もっとコミュニケーションが取れれば素直に受けられるのにな。
もったいない。

最初こそ反応の薄さを窮屈に感じたものだけれど、それにもすっかり慣れてしまった。
むしろ、わずかながら反応していることにちゃんと気付くようになったのは、いつからだっけ。

そんなことを考えながらシンクにポットを下ろすと、ほぼ同時に隣の作業台の上にカシャンと銀色の鍵が置かれた。
驚き過ぎて声も出せず、心臓だけがビクリと震えた。

「今日は遅くなりそうです」

またしても音もなく戻ってきた彼が必要最低限の言葉だけを告げる。

「あ、はい。わかりました。ご飯は食べますか?」

鍵をポケットにしまいながら見上げると、彼は少し迷ってからコクンと頷いた。
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