雨音色
きっかけ
「おはようございます」


広大な敷地の真ん中にある洋風な建物の一室に、彼らはいた。


「おはよう。藤木君」


藤木は両手に何冊もの厚い本を抱えていた。


「先生、申し訳ありませんが、独逸語の辞書を貸していただいても宜しいですか」


「おや、今日は授業がある日だっけ?」


「えぇ。午前中に独逸刑法の授業で、午後は判例研究のゼミナールです」


「そうか。頑張りたまえ」


牧は藤木の肩を軽く叩いた。


「藤木君、君の授業は帝国大の中で非常に分り易いと評判みたいだよ」


牧は片目を瞑って笑い、彼の両腕に抱えられた本の山の上に、もう一冊のそれを重ねた。


「あはは。牧先生にはまだまだかないません」


積み重なった書物の重さによろめきながら、


藤木はふと自分の学生時代を思い出した。


突然の父の死で大学中退を余儀なくされていた時、


牧が教授達に頼んで自分を学校に残してくれた事。


いくら父の友人だったといえども、自分の為に頭を下げてくれた人を、


藤木は亡くした父同様、尊敬し慕っていた。


「先生」


「どうした?」


独逸土産に買ってきた陶器のカップに、紅茶を注いでいる後姿に声をかけた。


「・・・あの時、どうして僕を助けてくれたんですか」


「あの時」、あえて具体的にいつの事か、藤木は言わなかった。


しばらくしての沈黙の後、牧が微笑んだ。


「そうしなけれなばらない、そう思ったからだよ」


腕に軽やかな重みを感じて、彼は呟いた。


「先生らしいですね」


牧は何も言わず、紅茶をお茶菓子と共に、自分の机に運んだ。
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