結婚したいから!

お付き合いにアルコールは付き物

「あ!海空さん!こっちこっち~」


繁盛しているらしく、混雑した居酒屋の店内を、お客さんや店員さんにぶつからないように、奥で手招きしている人のところまで急ぐ。


「大山さん。おつかれさまです」

周りは人の声で賑やかだから、わたしの声もかき消えそうだ。

「いや、ごめんね、急に呼び出して。あのさ、アイツ、アルコールが入るとちょっとは緊張しないでしゃべれるんじゃないかってひらめいちゃって」


大山さんから、電話があったのは、30分くらい前のことだ。


珍しい玲音さんからの着信に、緊張しながら出てみたら、玲音さんの電話を勝手に大山さんが操作していたのだった。


定休日の月曜日が明日だから、新しく入ったアルバイトの子の歓迎会を開いていたらしい。ちょうど、ピンクさんのところへ切らしたシャンプーを買いに、外出している最中だった。

玲音さんのお店の人たちは、この先のお座敷で飲んでいるらしい。

靴箱の前で、履いていた靴のストラップを外すと、思いがけないタイミングで玲音さんに会えることに、胸がドキドキし始めた。
「わたし、ちょうど近くまで来てたから大丈夫ですよ。でも、お店で働いてるわけでもないのに、入らせてもらってもいいんでしょうか…」

ときどき顔を出すようになったけれど、玲音さんのお店には、いつも数分いるだけだ。見知った人もまだ数人。お邪魔じゃないかな…。


すると、きょとんとした顔で、大山さんが言う。


「そりゃいいんじゃない。玲音のお嫁さんになるんだし」


!!!

なんでもないことのように、あっさりきっぱり言われて、赤い顔であたふたしてるのは、わたしだけだった。


「あ、ここだよ」

襖の前で、それだけ言うと、こちらも見ないで勢いよく襖をあけた大山さん。

「特別ゲストをお呼びしました~!」

ええっ、声大きいんだけど!中の様子を見つつ、こっそり入りたかったんだけど!!


予想に反して大声を張り上げた大山さんとともに、しっかり注目を浴びながらも、玲音さんを見つけた。

長い座卓には1,2,3…8人いるかな?奥に、玲音さんが肘をつきながらぼんやりとこちらを向いて座っている。


「あ?玲音、コンタクトしてねえの?」大山さんが言うと、「んー」といつも以上に優しい声を出す玲音さん。そっか。目が悪いってことも、まだ知らなかった。

それに、いつもしゃんとしてるのに、台に肘をついてなんだかだらけてる玲音さんが、新鮮。


「タイミングわりいな。お前のために一肌脱いでやったのに」

他のメンバーの視線も恥ずかしくて、入口ですっかり固まってしまった私を気遣って、大山さんが軽く背中を押して進んでくれる。「ここに座って」と、自分の席だったらしい、玲音さんの隣の座布団に座らせてくれる。


「み、く、ちゃん?」


焦点の合わない目で、こちらを見る玲音さん。ここまで近づいてもはっきり見えないなんて、かなりの近眼なんだなぁ。


「はい。あの、突然お邪魔してすみません。九条海空です」

やっとのことで、座卓を囲む人たちの方を向いて挨拶だけはした。みんな、玲音さんと一緒にお仕事してる人なんだ、いいなぁ、なんて思ったことは内緒。


「ほんもの?ね、大山、海空ちゃん本物?俺、なんでコンタクト取っちゃったんだろ。しかも捨てたし。早川、コンタクト予備持ってないの?」

「バカじゃね、本物に決まってんだろ」って、大山さん。「予備なんか持ってるはずないし」って、早川さん。「まあ、いいかぁ。俺、海空ちゃんの声が聞けるだけで、すごい幸せ」

玲音、さん。どうしたんだろう、この甘い発言。

そして、言葉も詰まらずスムーズに話せてるし。さらには、目もそらさずにまっすぐわたしの目を覗きこんでくる。


「えっ、と…」


目が合う貴重な機会に、それをそらすこともできず、かといって何か言葉を返すこともできず。


「あれ?なんかいつもと反対になっただけだな。海空さん、動揺しすぎ」

結局、わたしが大山さんに笑われる側に回っただけなのだった。お酒がすすむにつれて、アルバイトの学生さんたちは、「じゃあ、あたしたちはこれで!」と言って、学生だけの2次会に出かけてしまった。

「ヤバい、明日俺、1限の授業出席とるんだよな」とか、「あぁ!彼氏からメール来てるし!今から会ってこよ~」とか、言い残して、帰ってしまう子もいた。

彼らがいなくなると、座敷はずいぶん静かになった。


「こら!玲音、寝るなって!」

「んー」

大山さんに小突かれても、半目になっている玲音さん。仲良いんだなぁ。この席に呼んでもらって、彼らを見ていると、しみじみそう思う。


「玲音くん、海空さんが寂しがるよ」

「うっ、それは困る」

早川さんも、にこりともしないで、冷静な一言で玲音さんを操縦してる印象。彼女は製菓専門学校で、玲音さんの同級生だったらしい。


慌てて玲音さんが目をこすりながらわたしを振り返る。

そして、いつもよりへにゃっと、とろけるように無防備な笑顔を浮かべてくれる。…駄目だ、かわいい。的確に母性本能を刺激してくるなぁ。


「だ、大丈夫!寂しいけど、楽しいから!」

…自分でも何を言っているのかよくわからなくなってきた。玲音さんのことを言えないくらい、わたしもお酒に酔ってきたらしい。

もうちょっと、アルコールに強ければ、飲み会ってもっと楽しめそうなんだけど、って、いつもそう思う。


「海空さんって、しっかりしてるのかと思ってたけど、こうして話してみると、完全に玲音の同類じゃね?な、千歳」

「だね。真っ赤になってるのに、『寂しい』とか自分で言っちゃってるし」

大山さんも早川さんも、内緒話しているポーズをとっているだけで、明らかにわたしたちに聞こえるように話してくるから、ますます顔が熱くなってくるわたしたち。


た、たしかに。恥ずかしくなって俯く。「俺もう一生起きてる。寂しくないように、ずっと海空ちゃんのそばにいる」


はっきりした声でそう言われて、はっと見上げた玲音さんは、もう笑ってなかった。

時間が止まったみたい。


だった、けど…。

たぶん、数秒の後、玲音さんががつんと派手な音を立てて額を座卓に打ち付けた。とうとう寝ちゃったらしい。

起きていられたのは「一生」じゃなくて、「一瞬」だったらしい。


とたんに、自分の心臓がどっきんどっきんと、耳まで脈打ちそうな勢いで跳ねだした。


玲音さんの真剣な声色の言葉は、いつまでも耳から離れなかった。…のに!!それなのに!!


「もう!なんでいつも急なの!?」


玲音さんの言葉の余韻に、もっと浸っていたかったのに。っていうか、玲音さんともっと一緒にいたかったのに。


目の前には、わたしの部屋で、テレビを見ながら、おにぎりをもぐもぐ食べている母親の姿。

「あは。急にシフト替わってくれって言われてさ。3連休になっちゃったからぁ」


実家の母親から突然電話がかかってきたのだ。「ねえ、海空の部屋、鍵がかかってて入れないんだけど」って。

わたしは、後ろ髪を引かれつつも、アパートのドアの前で待っている母親を思うと、ダッシュで帰らざるを得ないのだった。


「そ、その歳で『からぁ』とか上目遣いしてもかわいくない!空港から電話するくらいのこと、大人なんだからできるでしょ!?わたし出かけてたのに!」

母は、北海道で看護師の仕事をしている。

44歳と、同じ年頃の友達のお母さんにしては若かったせいか、今でも女の子みたいな仕草を見せることがある。正直に言うと、今の上目遣いはちょっとだけかわいかった。「ふうん。デート?あー、もう10時か、門限過ぎてるのに、男と会ってていいのかな?」

「はっ!?ででデートじゃないし!それに門限って、いつの時代の話!?高校生まででしょ!」

でもすぐにこうして母親の顔に戻ってしまう。


シングルマザーである母は、仕事で留守がちだった。でも、それについて不満に思うことはあまりなかった。高校生になる頃までは、母方の祖父母も健在で、しっかり親代わりをしてくれたこともあって。

それに、思いついたら即行動するところ、少女のような仕草、時折見せる母親らしい表情、何もかも憎めない人だった。

わたしたちは、いわゆる「友達母娘」の典型だと思う。ふたりで出かけると、「姉妹ですか」って訊かれることもあって、浮かれる母とは対照的に、わたしは膨れていたものだ。

そういった気持ちの上での繋がりもあったし、母は親としての責任もきちんと果たしてくれた。自分の稼ぎと、祖父母がかけてくれていた学資保険で、わたしを短大まで行かせてくれたのだ。


とにかく、こんなことだから、口ではぎゃんぎゃん文句を言うこともできるけど、実際のところ、わたしは母に頭が上がらないのだ。


「外で待ってて寒くなかった?」…こうして、熱い紅茶とか、入れてしまう。母の方も、にっこり、と笑って、おいしそうにごくん、と飲んでくれる。


「大丈夫。北海道よりずいぶんあったかいし」

そっか。


「ねえ、お母さんは、どうしてお父さんと結婚しなかったの?」


いい塩梅に酔いが回っていたせいか、ぽろりと言葉が口からこぼれていった。


母は、きょとんとして、わたしの目を覗きこんだ。


「どこのだれか知らない人だったし」「えええええええええっ!?」


たぶん、25年の人生で最も大きな声だったと思う、わたしの記憶にある限り。


どどどどどど、どういうこと、知らない人の子どもがどうしてできるんだろう、お母さんって、若い頃はどんなふうだったんだろう。

あ、なんか犯罪の匂いもするかも…。頭の中がぐるんぐるんまわって…。


「あ、何?海空、酔っ払ったの?ほら、ちょっと座って」

母は、手近にあったクッションをラグの上に乗せると、ぽんぽんと叩いてみせる。そのままキッチンに行って、冷蔵庫の冷たい水をコップに入れて、持ってきてくれた。


結局いろんな言葉を、母にはぶつけることもできずに、コップの水を一気飲みした。


「別にレイプされたわけじゃないよ」

ぶっ。よ、よかった、あらかた水は飲んでしまっていた。「あ、でもされかけたなぁ、助けてもらった」

…よくわからないんだけど!!お母さんが悪い男にだまされたようにしか聞こえないんだけど!!


母は、わたしの混乱ぶりには全く気がつかない様子で、再びおにぎりをかじり出した。


「いい人だったよ。海空を産むことに迷いもなかったくらい。海空を授かるってわかってたら、名前くらい聞いたのにな」


そう言って、わたしの方に首だけ向けて、恥ずかしそうに微笑む母は、本当に少女のようだった。せっかく、長年疑問に思ってたことを、お酒に酔った勢いで、訊けたのに。

母のつたなすぎる説明では、あまり「いい人」には聞こえなかった父のことを、もっと教えてもらいたかったのに。


あのまま、いつの間にか、クッションの上で眠ってしまっていたのだった。

いつもなら、床で眠ることなんてないのに。

大人になった今でも、母はそこにいるだけで、わたしの心を穏やかにしてくれるに違いない。翌日は、月曜日。

わたしは萩原コンサルティングサービスに出かける。こうして玲音さんと順調にお付き合いしていると、ほとんど緊張しないで社屋に入れるから不思議だ。


「お母さん、近くをぶらぶらしてるね~。終わったら電話して~」

会社の前で、母と手を振って別れる。母は、今朝初めて、わたしが転職していたことを知らせても、たいして驚かなかった。建物を見ても「あら、大きな会社」と言っただけだった。


今日は、暑い。やがてやってくる夏を思わせる気候だ。半袖を着て、日傘も差してるのに、額にはかすかに汗がにじんできている。

夏が来るからと言って、忙しい玲音さんと、どこかに出かけられるわけじゃないのだけど、わくわくする。玲音さんがお店で仕事中だったとしても、彼のことを思っていれば、きっと楽しい季節になるだろうなって。


また、玲音さんの声が耳によみがえる。「俺もう一生起きてる。寂しくないように、ずっと海空ちゃんのそばにいる」って。

優しく丁寧なあの話し方で。アルコールのせいか、ちょっと熱っぽい視線。真剣な顔は、いつも以上に男らしく見えた。


きゃぁ…。なんか、プロポーズみたいじゃない?いや、もう、勘違いでも何でもいい。あのシーンを回想しているだけで、わたし、当分、エネルギー満タンだ。

たぶん、自分の妄想に酔っていたせいだ。正面玄関の自動ドアを2枚通り抜けると、背の高い人にぶつかりそうになった。


「すみません」

慌てて頭を下げて、相手を見上げると、部長さんだった。わたしとぶつかりそうだったことにも気がつかない様子で、まっすぐ外を見ていた。

「部長さん?おつかれさまです。どうかしたんですか?」

わたしの声はどうにか耳に届いたらしく、はっとした顔になって、ようやくこちらを見てくれた。


「ああ、九条さん、おつかれさま。知り合いが。いや、何でもなくて…。今、石原は接客中だから、迎えに来たんだ。俺が話を訊こう」

部長さんについて、相談用のブースに座ると、ちょうど接客を終えたらしい理央さんが、資料をたくさん抱えたまま入ってきた。


「こんにちは、海空ちゃん!部長、ありがとうございました」

入れ替わりに部長さんが出て行ってからも、「ちょっと待ってね」って言いながら、資料を分類してときどき何かを書き込んでいる理央さん。

「よし、お待たせ」って言って、こちらを向いた理央さんに、この1週間の出来事を報告する。その間に、気がついたのは、やっぱり、玲音さんと出会ったことで、母に父のことを訊くことができたんじゃないかってこと。

わたしと母は、あまり遠慮のない仲だと思う。それでも、チャンスはいくらでもあったのに、今までは父親のことを訊ねられなかった。

何も話さない祖父母と母を見て、「訊いてはいけないことらしい」と思っていた。もしかしたら、記憶にないくらい小さい頃に、「お父さんのことは訊かないで」って、家族のうちの誰かに言われたことがあるのかもしれない。


それでも、昨日の夜は、訊けた。

お酒でほろ酔いのおかげだと思ってたけど、そのせいだけじゃない。短大を卒業したお祝いに、母とふたりで、へべれけに酔ったこともあったのだから。


きっと、玲音さんと結婚したいからだ。わたしが。


早く結婚したいって、友達にはいくらでも言ってきたけど。結婚したいから、彼氏が欲しいって思ってたけど。


この人だから、結婚したいって思ってる。


玲音さんだから。これって、初めての感情。

だからこそ、母に父のことを聞きたくなったんじゃないかな。自分では、この妙に強い結婚願望が、父の不在にあると思っている。

前に言った通り、わたしは、祖父母と母のいる家庭に、それほど不満はなかった。だけど、「お父さんがいたら」って考えることは少なくなかった。


ベタに父親参観日が来るたびに。友達に父親のことを訊ねられるたびに。母が夜勤の夜に。彼氏から家に電話があるたびに。デートで出かけるたびに。

こうして玲音さんとの結婚を意識すると。夫婦を核にした家族って、どんなふうなのかな。

わたしと玲音さんが夫婦になれたと仮定して。あ、仮定しただけで幸せ。で、もし子どもに恵まれたりしたら。玲音さんってどんなお父さんになるんだろう。あ、想像しただけで幸せ。


なのに、母は、どうして結婚しなかったのか。父って、どういう存在だったんだろう。

今の私の家庭環境で、欠けた立場の人のことを、久しぶりに強く思い出したのだと思う。高校生のころから、わたしは母とふたりきりの家族だ。


家庭に、男の人がいるって、どういう感じなのかな。結局、その答えは分からずじまいだけど。

自分の心の中だけはよく見えるようになった。


「で、ね、海空ちゃん」

…ああ、理央さんに報告中だったんだ。一気に現実に意識が引っ張られてくる。

「あ、なんですか」

「だから、手が空いている時間だけでいいから、月曜日以外にも手伝いに来てくれると嬉しいんだけど。今私、忙しくて困ってて。高林さん、月曜日がお休みなんでしょ。月曜日に予定があれば、休んでくれていいから」

「え!?なんですか、その美味しい交渉!はい、受けます。オーケーです。間違いなく」


月曜日に時間が取れないのが残念だと思っていたのだから。

それに、ほかの曜日も、わりとぼんやり時間を過ごしていてもったいない気がしていたところだ。


「ん?あ、でも、手伝いすぎないでね」

苦笑して、慌てたようにつけたす理央さん。「しっかり女を磨いて。高林さんと上手くまとまってくれるのが、海空ちゃんの一番のお仕事だからね。若手のパティシエで実力派として注目されている彼と、あなたが結婚してくれれば、わが社のいい宣伝になる」


あ、そう、だった。


以前に渡された資料の「紹介者の条件」とやらを思い出す。

玲音さんは、「多数の知人・縁者があり、影響力があること」という部分にがっちり当てはまる。ただ仕事大好きで、表情や性格がわたし好みの人、ってわけじゃないのだ。

ときどき試食させてもらうスイーツは、ひいき目なしに見ても絶品だし、あの性格だけでも人を惹きつけるのに、実力があるから、周りが放っておかない。彼が多忙なのは、お店での仕事のほかにも、いろんな人との付き合いがあるからだ。

そんな玲音さんとわたしが結婚したら、その機会を提供した萩原コンサルティングサービスにも、多少はいい影響があるのかもしれない。ビジネスの仕組みは、難しくてわたしにはよくわからないけど。


恋愛することが仕事、ってだけじゃなくて、結婚することも仕事、なの?From 高林玲音
Sub ごめん!
本文 

昨日は酔っ払っていて、ごめんね。

申し訳ないけど、記憶のところどころが曖昧で。消えているところもあるような気がする。

急だけど、今日から、博多に行ってくるよ。親父の店がデパートに期間限定で出店するから、その手伝いに。職人がひとり、盲腸で入院したんだって!

帰ったら、また会ってください。



玲音さんの実家も、洋菓子店を営んでいる。

小さい頃からお菓子を食べる毎日だったから、高校2年生までは、ぽっちゃりしていたらしい。でも、その年のクリスマスの当日に、仕方なしにお父さんの手伝いをしてから、食べることより作ることの面白さに目覚めたとか。

寝食を忘れてお菓子作りに励んでいるうちに、食べて摂取したエネルギー<作って消費したエネルギー、の式が成り立つ毎日となり、いつの間にか痩せていたんだって。


ものすごく、つっかえつっかえだったけど、そうやって話してくれたことがある。
「何ニヤニヤしてんの?わが娘ながら不気味だな」

仕事が終わって、近くをウインドーショッピングしていた母と、喫茶店で待ち合わせていたところなのだった。

「えっへっへ」

どうしても、笑みを消せなくて、開き直って笑って見せた。


玲音さんのメールって、言葉づかいも優しくて、読んだだけで心がぽかぽかする。それに、最後の「また会ってください」ってところだけ、敬語っていうのも、誠実な印象。

こちらこそ、ぜひ会ってください!!って、胸の中で思わず叫んだわたし。


まあ、母には、不気味に見えたことと思う。


「彼氏?」

「うん。…うん、たぶん…」

「はあ?」

さらに怪訝な顔になって、母親が向かいの席に腰を下ろす。うすうす感づいていたところを、気がつかないように気をつけていた。

彼氏って言いきっていいんだろうか…?

わたしたち、付き合ってるんだよね?「お見合いの会社で、紹介してもらった人。ときどき会ってるんだけど」

「そう」

オーダーを取りに来た店員さんには、なぜか、年相応の静かな声で「ミルクティー」と注文している。


そうだ、実際のところはそれだけなんだ。


正直、わたしの状態は理央さんの言うところの「のぼせあがる」から、「恋焦がれる」の境地に差し掛かっていると思うし、玲音さんの好意も伝わってはくるものの、言葉にして好きだとか付き合おうとか言われたわけじゃない。


紗彩の「時間をかけて、打ち解けてみる」ってアドバイスもあることだし、玲音さんもずいぶんシャイだし。


あんまり気にしないようにしてた。


週の半分くらいはお昼に公園で会っているものの、毎回1時間くらい。

元々、休日が合わないうえに、翌日の分の材料を仕込んだり、買い付けに出かけたりと、玲音さんは開店前と閉店後も忙しい。さらには、仕事の繋がりでのお付き合いも多いみたいだし。


昨日、お店の飲み会に飛び入り参加させてもらったのが、いかに貴重な機会だったことか。
「その人のこと、好きなんだ?髪形とか、気を遣うようになったし」

無言のわたしをみて肯定だと捉えたのだろう、母は自分のことのように、嬉しそうに微笑んだ。

「よかったね、そんな人に出会えて。海空って、『彼氏』って言える立場の人にでも、あんまり夢中になってるの見たことないなって思ってたから」


そうなのだろうか。


でも、一番近くでわたしを見続けてきた母が言うのだから、きっとそうなのだろう。

言われてみれば、合コンで知り合ってあっさり振られた元彼のことは、きれいさっぱり忘れていた。玲音さんと知り合ってからは、思い出すこともない。


「わたし、いつも、相手の人を全力で大事にして、自分も大事にしてもらえるように努力してたつもりだったんだけどな」


母はくすくす笑い出した。

「そんなに頑張ったら、息切れしちゃうね。お互いが一緒にいてリラックスできるのがいい気がするけどな、お母さんは」

「…っていっても、結婚もしたことないんだったわ!」

なんて言って、ひとりでけたけた笑い出す。

息切れ、かぁ。してたのかな。恋に息切れする自分を思い浮かべてみると、不本意にもよく似合っている。嫌われないように、結婚したいと思ってもらえるように、って行動することが多かったような…。

「お母さん明日帰るし、今晩はなんか海空の好物、作るよ~。スーパーで材料買っていこ!」

さっきまで、女友達みたいな顔してたくせに、さっと母親の顔になる。

いつの間に届いていたのか、母は熱々のミルクティーをごくごくと一気に飲み干した。
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