哀しき血脈~紅い菊の伝説3~

夕暮れ

 絵美は数時間意識を失っていた。
 いや、正確には後半は緊張が解れて安らかに眠っていた。夢の中に出てきた誰かのおかげであの記憶は心の表面から奥深くまで沈められていた。
 そのために絵美の目覚めは爽やかなものだった。
 あの声は誰だったのだろうか。
 聞き覚えのない声だったが、どこか哀しげで絵美の心から離れなかった。妙に大人びていたが、それでいて自分とさほど変わらない年代の声。それは絵美に親しみさえ感じさせていた。
 また会えないかしら…。
 ベランダに出て日増しに遅くなっていく夕暮れの街を見ながら絵美はそう思った。
 空が青から藍に、藍から赤に変わっていく。 陽の光が次第に弱くなっていく。
 気の早い街灯が一つ、また一つと、白い明かりを灯していく。
 絵美は深い息を一つした。
 そのとき、誰かの視線を絵美は感じて家の前の小道を見下ろした。
 そこにはフードを深くかぶった男の子が立っていた。年は絵美と同じくらいに見えるが、学校にはそんな子はいなかった。
 誰だろう?
 絵美の好奇心が首を擡げてきた。
「あなたは?」
 絵美は恐る恐る声をかけた。
「もう大丈夫なようだね」
 男の子は安心したように笑って見せた。
 その声に絵美は聞き覚えがあった。
 あの夢の中の声だった。
「ありがとう、もう大丈夫」
 絵美はそう答えた。
 頬が、耳が熱くなるのを感じた。
「そっち行ってもいいかな?」
 男の子はさりげなくそう言ってきた。
 でも二階だよと絵美がいう前に彼は宙を舞って彼女の横に立った。
 絵美は目を丸くして男の子を見つめた。
「ゴメン、驚かせちゃったかな?」
 男の子は悪びれることなくそう言った。
 ベランダのフェンスに手をかける。不意に吹いてきた風が彼のフードをめくる。
 彼の肌は透けるように白い。押して顔は人形のように整っていた。
 絵美はその横顔を見て言葉を失っていた。
 二人の時間はぎこちなく過ぎていく。
 ただ黙ったまま、二人は数分間をベランダで過ごした。
「僕、遠山信。君は?」
 意を決したように信はそう言った。
「私、佐伯絵美…」
 絵美もぎこちなく応える。
「学校、私と同じだよね。転校生?」
 絵美は信の顔を知らなかったという疑問を彼に向けた。すると信は急に寂しそうな表情を浮かべた。
「僕、学校行っていないんだ…」
 絵美は訊いてはいけないことを訊いてしまったと思った。だがそれよりも興味が勝った。
「何故?」
「病気なんだ。全身性エリテマトーデスっていうらしいんだけど、太陽の光に当たると火傷みたいになっちゃうんだ」
 信はそう言うと俯いてしまった。表情を覗き込んでみると涙ぐんでいるようにも見える。 このことは信にとって触れて欲しくないことだったのだ。絵美はそう感じていたたまれなくなった。
「ゴメンね、そんなつもりじゃなかったんだ」
「いいんだ、もう慣れたから」
 信は無理に元気な装いをした。
 絵美は信の手に自分の手を添えた。
 女の子のような整った手は思ったよりも冷たかった。
「ねえ、寂しくないの?」
 絵美の声が哀しく響く。
「平気、だよ…」
「嘘」
「嘘じゃない」
「だって、涙が出ているよ」
 絵美の言葉に信は右手で目を拭って笑った。「ほら、泣いてない」
 無理して笑っている信を見て絵美も笑顔が浮かんできた。絵美は信に向かって右手を差し出した。
「ねえ、握手しよう」
 突然の絵美の申し出に信は戸惑った。
「友達になってあげるよ」
 絵美は微笑んでもう一度手を差し出した。 信はおずおずと自分の手を重ねる。
 冷たい感触が絵美の手に伝わる。
 だがその感触はさっきよりほんの少しだけ暖かいように絵美は感じた。
< 14 / 44 >

この作品をシェア

pagetop