隣人M

隣人の存在

結城克己には気になることがあった。それは、今日の宿題を誰に写させてもらうか、とか、放課後はどこのゲーセンに行こうかとか、そういったものではない。今、彼の目の前には頑丈なドアが立ちふさがっていた。何故か、そのドアノブをゆっくり回し、中を覗き見たい衝動に駆られるのだった。


今は朝の七時。後ろのドアから、母のあゆみが静かに皿を洗っている音がする。廊下をみしみしと音をたてて歩く音も重なって、克己の耳にこだまする。恐らく、父の哲郎がたばこをふかして歩き回っているのだろう。 所属しているバスケ部の荷物が入っている、肩から下げた大きなスポーツバッグの中から、さっき受け取った弁当のぬくもりが心地よく伝わってくる。いつもならさっさと通りすぎてしまう、何の変てつもないこのドアの前から、不思議なことに克己は離れることができなかった。


「おい、克己。何やってるんだ?」


クラスメートの神楽夏彦が階段から下りてきた。夏彦は同じマンションの三階に住んでいて、克己とは仲がいい。朝はいつも誘いあって学校へ行く。彼のおどけた口調で我にかえった克己は、決まり悪そうにぎごちなく笑った。


「よう、夏彦。遅いぞ」
「まあな。でも五分くらいかまわないさ。歩きながら話そう」


さっさと夏彦は階段を下りていく。克己はその後に続いた。夏彦の後ろに立つと、前がよく見えない。彼は身長が高いのだ。180センチ、堂々とした体格をしたバスケ部の花形シューターは、長めの髪をなびかせてゆっくり歩く。克己もバスケ部だが、体格は女子のようだった。白い肌、細い手足、たいして高くもない身長。以前から夏彦が羨ましかった。


ふと気づくと、夏彦が何かしゃべっている。克己は上の空で聞いていなかった。


「……でさ、見てたらいつの間にか朝の三時だった」


夏彦が賛意を求めるように克己をちらりと見たので、彼は慌てた。


「黒田なつみか。かわいいもんな」


口からついて出たのは、テレビにその端正な顔が映し出される日がないという人気アイドルの名前だった。夏彦は彼女の大ファンなのだ。


「あ?何言ってんだよ。BEANSだよ」


失敗した。男性ボーカルの甘く切ない歌声が人気を独占しているこのバンドも、夏彦のお気に入りなのだ。


「お前、今日は変だぞ。どうかしたのか?」
「別に。俺も寝不足でさ」
「あの、お前の家の隣のことか?」

克己はどきりとした。


「図星だな?ずっとあの部屋の前に突っ立ってたからな。女か?」
「し、知らねえよ」


二人は、お互いの顔を見合わせて大笑いした。大きなごみ袋を抱えた小太りのおばさんが、けげんな顔をして克己の横をすり抜けていった。


「お前、気をつけろよな」
「何がだよ」
「水町さ。あいつはお前のことが好きだぜ」
「まさか」


水町夕夏(ゆか)は、克己の幼なじみだ。クラスメートで、バスケ部のマネージャーである。それ以外に特別な関係は何もない。夕夏は強い。小さい頃はよく泣かされた。しかし、それが悔しかったわけではなく、むしろ叩かれた痛みと一緒に甘い思い出になっていた。


「あいつは腕が立つからな。俺でもかなうかわからん。下手をして怒らせないようにしろよ」


全くだ。克己は夕夏の気性を思い出して苦笑した。


「お、そこで笑うってのは……やっぱあの部屋は女の部屋だろ。水町と比べたな?言いつけよう」
「ち、違うって!」


克己は冷やかされて、真っ赤になって必死に否定する。本当に……多分。隣人が本当に住んでいるのかすらわからないのに。―でも。克己の胸がキリリと痛む。知っているような気がする。目を閉じると、何かが思い出せそうな気がする。おぼろ気に、その輪郭だけでも。


「おはよう、結城くん、神楽くん。今日もにぎやかでうらやましいね」


ふわりといい香りが克己の鼻をくすぐった。やっぱり椎名さんだ。椎名和馬。克己たちが住むマンションの管理人だ。まだとても若く、25、6歳だろうか。切れ長の目が少し細くなって二人に笑いかけている。いつもは黒い癖のない髪が無造作に後ろで束ねられているが、今日は茶色のメッシュが入っている。彼もまたすらりと背が高く、セーターの下の引き締まった体が想像できる。ふちのない眼鏡をかけている彼は、理知的でまるで医者のように見えた。時々見せる鋭い目つきは、人の心をえぐるようにぐさりと刺さる。


派手すぎない、それでいて整った顔立ちの椎名は、マンションの若奥さんたちの間で人気があった。管理人室の前には、小さな用事―傘を貸してほしいとか、ペンが落ちていたとか、そういったごくつまらない用事をいちいち報告するためだけに、めかしこんだ女性たちがうろうろしている。椎名の対応も優しいものだから、ますます奥さん連中が熱を上げるのだ。そのわりには浮いた噂は一つもなかった。夏彦はあらぬ想像をし、あまり彼のことが好きではないようだったが、克己は気にかけていた。あの隣人のこともいつか聞いてみたかったからである。


「僕も高校の時は君たちのようにバスケットをしていたよ。懐かしいな」


「へーえ……」


夏彦は曖昧な、返事ともあいづちともつかない間のびした声を出して、しきりに克己に目配せして袖を引っ張る。どうやら早く立ち去ろうという合図らしい。しかし、克己は従わなかった。


「椎名さん」
「うん?何かな?」
「今日、俺が帰ってきてから、管理人室に遊びに行ってもいいですか?」
「克己!お前、部活は?」


夏彦がすっとんきょうな声を上げた。無理もない。もうすぐ地区大会なので、練習は夕方遅くまでやっているのだ。


「いいさ、今日は筋トレだろ?女子がコートを使うはずだから」


克己は夏彦に答えながら、視線はまっすぐ椎名を見据えていた。バスケ部は、男女交代でコートを使用している。今日は女子の練習日だ。コートが使えない日は、筋トレやランニングを行ったり、ミーティングを開いたりする。克己はそうした地味な練習も欠かしたことはなかったが、今日はどうでもいい気分になっていた。夏彦の食い入るような視線が頬に熱かったが、少し肌寒く秋らしい風が通り抜けていった。椎名は、困ったような顔をしていたが、それも一瞬で、すぐに笑みを浮かべた。


「いいよ。五時以降なら、いつでも来るといい」


克己は軽く頭を下げて、まだこちらを睨むように見ている夏彦の肩をぽんと叩いた。


「遅れるから、走ろう!」


克己は風を切って走った。夏彦がその後を追う。街路樹の紅葉しかけた葉も、既に太陽の光を浴びて輝いていた。

< 2 / 37 >

この作品をシェア

pagetop