B級彼女とS級彼氏

 第2話~そうか、これが厄日というものか~

 目の前にぬっと立ちはだかる嫌な客が、確認するかのように私の名前を呼んだ。すぐには気付かなかったけれども、五秒間ほどじっと相手を見ていたら、随分昔に記憶から抹消していた人物が浮びあがってきた。

「……」
「やっぱり……お前、T高に居た芳野だろ!?」
「ち、ち、ち、ち、違います!!」

 私は咄嗟に嘘を吐いた。
 もう二度とこいつとは絡みたくない、思い出すのも嫌気が差した。

「はぁっ!? お前この期に及んで嘘とか、――ありえん!」
「ひ、ひひひ人違いです!」

 レジからつり銭を取る手が小刻みに震え、落ち着け、落ち着かなきゃと思えば思うほど、上手く小銭を取ることが出来ない。
 こんな時に限って万札出すとか、……もうほんと、勘弁してください。

「人違いって、……ネームプレートに“芳野”ってちゃんと書いてあるだろーが? ああ゛!?」

 ――相変わらず口悪いな、こいつ……。
 一瞬怯みそうになったが、ここで反論しなければ認めた様なものだ。この場を上手く切り抜ける良い手はないものかと思案するも何も浮かばず、咄嗟に口を衝いて出た言葉は自分で言うのもなんだが本当にどうしようもないものだった。

「ちっ、違いますっ! “芳野”って書いて“やまだ”って読むんですよ!!」

 苦し紛れから出た嘘ではあるものの、漢字にはとんと弱い奴の事だ。もしかしたら納得してくれるかもと、私は祈る思いだった。
 小田桐はアメリカ人と日本人とのハーフで、高校生時代も国語はまぁひどい点数だったのを覚えている。彼の過去の実績からして、こんなありえない嘘でも簡単に引っ掛かるかも知れないと思った。

「お前な……。俺がそんな見え透いた嘘に『はい、そうですか』なんて言うと思ってるのか?」
「言うじゃん! あんた昔、『田中と書いて“いしばし”です』っての信じてた……」

 馬鹿にしたような態度を見せた小田桐に、ついついいらぬことをべらべらと喋ってしまう。私の反応を見た小田桐は、嫌らしく口の端をつり上げた。

「へぇ。『昔』――、ね」
「はっ! い、いや、昔そんな番組ありましたよねー、なんて。ははは……」

 まだつり銭も返していないと言うのに小田桐はから揚げちゃんの封を開け、台の上にもたれかかるとそれを一つ口に入れた。無言のままじろりと横目で見られているのを感じながら、やっとの事でつり銭を渡すことが出来た。

「あ、ありがとうございました!」
「……」

 ――さ、さぁ帰れ! これであんたとはオサラバだ!!
 そう心の中で言ってみても、当の小田桐は帰るどころかドンと腰を落ち着かせてしまって動こうともしない。面倒ごとに首を突っ込みたくない私は、こんな奴はほっといてさっさと休憩に行かせて貰おうとその場を離れた。
 バックルームへの扉を開けようと手を伸ばす。と、その時。まだ手も触れてもいない扉が急に開き、中から慎吾さんが勢い良く飛び出して来た。

「歩ちゃん、もうお客さん出た? 休憩行っておい……あ、失礼しました」

 私がバックルームへ向かってくるのが小窓から見え、きっと誰も居ないと思ってそう言ったのだろう。店内に出てみてだ客が残っていた事に気付くと、慎吾さんは頭を下げた。

 ――いい、いいっ! 慎吾さん、こんな奴に頭下げなくてもいいってば!
 思って居る事が慎吾さんに当然伝わる事は無く、ただくしゃくしゃにした私の顔を見た慎吾さんは首を捻っていた。

「あ、……じゃあ、行ってきます。えと、……あちらの方は、お会計済みですので」
「あ、うん。りょーかい。行ってらっしゃい」

 後半部分を小声で言うと、慎吾さんはいつも通りに笑顔で返してくれた。
 やっとの事で解放されるのだとほっと息を吐きながら、バックルームに通じる扉に手を伸ばした。

「……。――ぐへっ!?」

 突然、襟の後ろを掴まれた事で変な声が出てしまう。苦しいながらも後ろを振り返ってみると、そこには何故か般若の様な恐ろしい顔をした小田桐が何か文句を言いたそうにして私を見下ろしていた。

「はぁっ!? ちょ、何す――」
「丁度いい。休憩するんだったらちょっと来い。話がある」
「な、何言って……ぐぁっ!!」
「問答無用」

 手加減することなく襟首を掴み、私を引き摺るようにしてずんずん歩き出す。目を丸くしている慎吾さんに両手を伸ばして助けを請うも、突然の出来事にどう対応していいやら判らない様な顔をしていた。






「もうなんなのっ! 離してよ!」

 出口を出た所で、やっと襟首を開放される。後ろ向きと言うか、蟹歩きと言うか。とにかく凄い体勢で歩いていたけど、すっ転ばなかったのがある意味奇跡だと思った。

「お前、どういうつもりだ?」

 首元を押さえ呼吸を整える私の頭の上から、どこか冷たさの感じる声が降りてきた。

「……は、はぁ? そっちこそ、一体何様のつもりよ!?」

 上体を起こし、目の前に立ちはだかる巨体を睨み付ける。身長百七十センチある私は女にしては背が高い方ではあるが、そんな私でも小田桐は優に見上げる事が出来る。ただでさえ、この傲慢な態度が気に入らないって言うのに、それに輪を掛けて上から見下ろされるのが本当に悔しかった。

「……? 何処へ行く?」
「何処って、休憩よ! あんたさっき聞いてたでしょ!」

 こいつと話す事など全く無い私は、小田桐に背を向けると店の裏口へと歩き出した。

「――? 何でついてくんのよ」
「へぇ。こんなとこに裏口があったのか」
「もういいから、さっさとそのから揚げ弁当持って帰んなってば!」

 そう言うと、小田桐は思い出したかのようにまたから揚げちゃんをひとつ取り出し、パクリと口の中に放り込む。余程気に入ったのか、昔から無表情だった彼の顔が僅かに緩んだように見えた。

「ったく! ……!?」

 裏口のドアノブに手を掛けた時、小田桐の長い腕が顔の横からぬっと現れた。勢い良く振り返ってギロリと小田桐を睨み付けると、あいつは何故か嬉しそうに笑みを浮かべていた。
 から揚げちゃんが美味しすぎて笑っているのか、それとも頭がおかしくなったのか。どちらにしても不気味であった。
 扉を押さえつけていた小田桐の腕が離され、手元のから揚げちゃんに再び伸びる。さっきは不気味に微笑んでいたのに、今度は呆れたような顔つきに変わった。

「お前さ。……あいっかわらず、かわいくねーのな」
「!?」

 ――はぁっ!? こ、こいつ、未だにこんな失礼な事言うのか!?
 腑抜けたツラして、から揚げちゃんをモリモリと食べる小田桐に対し、『お前みたいな奴は、から揚げちゃんが喉に詰まって死ね! 若しくは、から揚げちゃんの食べ過ぎで、超肥満になってトイレから出られなくなって死ね!!』と、心の中で何度も呪いをかけた。

「あ、相変わらずって、私は今初めて会ったばかりなんですが!」
「お前、……まだその話有効だと思ってんの?」

 小田桐はふんっと鼻で笑うと、聞こえるか聞こえないか位の小さな声で「馬鹿じゃね?」と呟いた。
 はらわたが煮えくりかえるとはこの事かと自覚した。これほどまでに、いっそこの手で殺めてやりたいと思った事は無い。
 身体全体から湧き出る怒りによる震えを感じながらも、もうこうなったら最後までシラを切り通してやろうと決意した。

「あの、もういいですか!? 休憩時間終わっちゃうんで!」

 小田桐はから揚げちゃんを口にくわえたまま、それが入っていた袋を引っくり返したりしている。もう食べ尽くしてしまった事にどうやら気付いたのか、その袋を私の手の平にポンッと乗せた。そして、又小田桐の腕が顔の横にドンッと置かれ、あっさりと囲まれてしまう。

「な、に……」

 もう一方の手でから揚げちゃんを口から離し、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「俺が漢字が苦手だったって事覚えてるくせに、まだシラを切るつもりなのか?」
「は、……は? 何の事だかっ、――ふがっ!」

 大きく開けた私の口が、から揚げちゃんで塞がれる。小田桐は大きなブラウンの瞳で私を射抜いたまま、人差し指と親指を順番に舐め始めた。
 私は職場である裏口の扉に貼り付けられ、口はから揚げちゃんで塞がれている。手にはから揚げちゃんの袋を持たされたままで、から揚げちゃんのエキスが染み付いた指までをも味わい尽くそうとしている男の前で、――硬直していた。

「まぁ、いい。忘れたっつーなら思い出させてやるまでだ」

 ――覚悟しとけよ。
 三白眼の目を細めながらそう言うと私の頭をポンポンッと軽く撫で、ズボンに両手を突っ込みながら小田桐はくるりと背中を向けた。
 やっとの事で解放された私は、口にくわえさせられたから揚げちゃんを取ると、がっくりと肩を落とした。

「……墓穴掘った」

 流石の小田桐でも“やまだ”は読めたのかもしれない。突然の出来事で上手く対応出来なかったとはいえ、もっと別の方法があったんじゃないかと意気消沈した。

「――。……! あ、あんた、手! 今、指舐めた手で私の頭触ったでしょ!?」

 大声で張り叫ぶが、小田桐は振り返りもせずひらひらと手を振っていた。

「や……」

 ――厄日だ……!
 悔しさの余り、持っていたから揚げちゃんをポイッと口の中に放り込んだ。

「……。――ああっ! これ、さっき小田桐がくわえてた……」

 もういっその事、自分がこの世から消えて無くなりたいとさえ思ってしまった。



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