シーサイド・ティアーズ~潮風は初恋を乗せて~

蘿蔔さん

 帰宅後、夕食までまだ少し間があるということで、庭をぶらりとしていた私。
 何気なく朝顔のところまで足を伸ばしたとき、昨日会ったにこやかな男性をそこに認めて、少し驚いた。
 今日も作業着姿だけど、昨日と違って段ボール箱は抱えていない。
「こんにちは。昨日より、こちらに参りました峰霧雫と申します」
 頭を軽く下げて、私は挨拶した。
 私に気づき、こちらへ顔を向けるその男性。
 その顔には、汗が幾つも見受けられた。
「これはこれは、ご丁寧にどうも。私は蘿蔔吉兵(すずしろ・きっぺい)と申しまして、植木職人をやっております。あなたが峰霧様でございましたか! とんだご無礼をいたしました、お詫び申し上げます」
 ペコリと頭を下げる蘿蔔さんに、私は「お気になさらず」と言った。
「私はこちらのお屋敷にて、お庭のお手入れを任されております。私はこちら以外にも、幾つかお仕事を掛け持ちしておりますので、住み込みではないのですが。そういう事情もあり、とんだ失礼をば、いたしまして。重ね重ねお詫び申し上げます」
 またも頭を下げる蘿蔔さん。
 腰が低い人だなぁ。
「いえいえ、全然気にしておりませんから。ところで、そちらの朝顔も、蘿蔔さんがお手入れを?」
 蘿蔔さんの目の前にある朝顔を指差して、尋ねてみた。
「はい、もちろん。私めが責任を持って、お水を差し上げております。個人的には、3本目を植えられたほうが見栄えがよろしいと思いますし、そう進言させていただいたのですが、どうしても2本のみにしてほしいとの仰せでして」 
 え?
 なんで、2本にこだわってるんだろう。
「桜ヶ丘さんが、そう仰ったのですか?」
「ご本人から直接というわけではないですが、そういうことでしょうね。私は桜ヶ丘会長には、お会いしたことが一度もないのですよ。滅多にこちらの別荘にはいらっしゃらないようですし、そもそもおいでになったとしても、私のような者には会われないでしょうから。なので、会長のご指示を、蓮藤様やその他、会長側近の方々が伝えてくださるわけです。そして、蓮藤様より、そういうご命令をいただいたので、2本のみ植えまして、こうして育てているわけですよ」
 そこで朝顔を見上げる蘿蔔さん。
 釣られて私も見上げる。
 空はまだ青く、夕暮れの気配はない。
 でも、気温は少しずつ低くなった気がするし、セミの声も静かになっていた。
 そして、朝顔は……うん、蘿蔔さんの言うとおりだ。
 どう考えても、3本のほうが、見栄えが良い。
 2本の間に、明らかに1本分以上のスペースが空いているから。
 どうして、3本目を植えないのかな。
 まさか……この2本も競争させている、とか?
 昔のショウ君と私のように。
 まさか、ね。
「では、私はこれから花壇のお手入れがございますので、これにて失礼いたしますね」
「あ、お仕事のお邪魔をして申し訳ございませんでした!」
「いえいえ、そんなに急いでおりませんし、大丈夫ですよ。それに、お話できて、いい気晴らしとなりました」
 笑顔でそう言って、一礼の後、蘿蔔さんは庭の奥へと歩いていった。
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