プラス1℃の恋人

【3】深まる謎

 どれくらいの時間が経過しただろう。

 青羽はプリントアウトされた原稿を見ながら翻訳文のチェックをしていた。

 さっきまではパソコンに直接入力していたのだが、モニターの光が目に刺さり、こめかみがズキズキ痛んでもう限界だった。


 右手の小指の付け根がデスクの上にトンと当たる。
 はっとして顔をあげると、赤いボールペンが机の上を転がっていくのが見えた。

 ボールペンを押さえようとするが、思うように手が動かない。

 指先が痺れて固まっている。
 紙の上の文字はミミズの這ったような形をして、とても判読できるようなものではなかった。

「おい、大丈夫か?」

 声をかけられ、ふと我にかえる。
 イオン飲料を両手に持った千坂が、いつのまにか青羽の横に立っていた。

 心配そうに顔を覗きこんでいる上司の姿を見て、青羽は目をしばたたかせた。

 とうとう幻覚まで見えるようになったか。

 さっきまで半袖ワイシャツをきっちり着ていたはずの千坂は、カーキ色のタンクトップを着ている。

「……なんて格好をしてるんですか」

 仮にも天下のB.C.square TOKYOで働く企業戦士が、休日のおっさんみたいなタンクトップ姿だなんて。

「あっちぃんだよ。気にしないでお前も脱げ。どうせこのフロアは、全部うちの関連会社なんだし。こんな時間に客も来ねえよ」

 ニヤニヤと口の端を上げる千坂は、実家の父親と大差ない。

 時計を見ると、もう20時を回っていた。
 オフィスに残っているのは千坂と青羽のふたりだけである。

 陽炎が出そうなくらいの湿気と高温。
 額を伝い落ちる汗。

「あーもう、私も脱いでやる!」

 おそらく、この時点ですでに思考がおかしくなっていたのだろうと思う。



 千坂に触発された青羽は、更衣室に駆け込んだ。

 まずは暑苦しいストッキングを脱ぐ。
 素足を塗れたタオルで体を拭くと、ひんやりしてだいぶ生き返った。

 ブラウスも脱ぐことにした。
 なかに着ていたのはキャミソールだが、アウターとしても着ることのできるデザインなので問題ないだろう。

 サンダルもいらない。
 帰りに足を拭けばいい。


 素足にキュロット、上はキャミソールという格好で、青羽はオフィスへ戻った。

 千坂は青羽の格好を見てヒュウと口笛を吹く。
 なかなか爽快だ。

 うちわで顔を煽ぎながら、千坂は隣にある課長の椅子の上に足を投げ出した。

 いつもの毅然としたマーケティング部主任の風格はどこへやら。
 いまの千坂はユルユルにゆるみきったクマだ。

 呆れる青羽に向かって、千坂はニヤリと笑う。

「告げ口すんなよ」

 悪さをした子供が共犯を求めてくるような態度に、青羽は笑いがこみあげてきた。

 なんとなく、ともに戦地に残された仲間のような気分である。
 熱帯化したオフィスで、ともに闘う同志。

 よし、と青羽は大きく伸びをする。

「上司をこれ以上ゆるゆるにさせないように、かわいい部下は頑張りますっ」

「おう、頼むぞー」

 これ飲め、とイオン飲料のペットボトルを渡される。
 だいぶぬるくなっていたが、渇いた体に水分が染み渡った。

 青羽の残業に付き合うために、千坂もこうやって残っているのだ。

 そのことに気づいた青羽は「集中!」と気持ちを引き締めた。
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