役目を終えたはずの巫女でした――選ばれなかった10年の先で、想い続けた騎士にもう一度出会う
第1章 再召喚 ―― 終わったはずの日常へ
やっと最近になって、私はこの世界の現実を受け入れられるようになった。
あれは夢だったのだと、思えるようになったのに。
――今さら、またゼフィーリアに行くことになるなんて。
正直、もうこんな中途半端なことはしたくなかった。
二つの世界を行き来していた10年間、私はどちらの世界にも言い訳をしながら生きていたと思う。
いざとなったら、どちらにも戻れる。そんな逃げ道を常に残して。
あれから3年。
30歳になり、看護師の仕事だけは、なんとか「まともに」できるようになった。
それ以外は――友達もいないし、趣味も特にない。仕事以外で人と関わるのは家族だけだ。
寂しい人生を、満喫中。
それでも、あの頃の私よりは、ずっと地に足がついていると思っている。
「はぁ……」
鏡の前で、思わずため息がこぼれる。
「それにしても不思議よね。普通、一度選ばれた人間が、もう一度選ばれることなんてないのに」
呑気に首をかしげるおばさん(凛の母親、桜の母親の妹)の声に、私は苦笑した。
「桜ちゃん、ごめんね」
本当に申し訳なさそうに言うのは、凛ちゃんだ。
「いいの、いいの。凛ちゃんまだ中学生なんだし、行き来は大変だったでしょ」
「桜ちゃんも学生の頃は大変だったもんね」
おばさんが、私に申し訳なさそうにしつつも、凛ちゃんにフォローを入れる。
その瞬間、鏡が淡く光り始めた。
表面に、幾何学的な魔法陣が浮かび上がる。
「じゃあ、また3日後ね」
そう言って、私は鏡の中へと足を踏み入れた。
――――――――――
ため息をついた理由は、行き来そのものへの憂鬱だけじゃない。
それ以上に――あちらの世界の人たちを、がっかりさせてしまうことだった。
私の巫女としての能力は、叔母さんや凛ちゃん、歴代のご先祖様と比べても最下位だ。
私がなんとか巫女を務められていたのは、騎士たちの能力が過去最高水準だったからにすぎない。
しかも、凛ちゃんは、私なんかとは比べものにならない力を持っている。
私と入れ替わっていることすら、向こうの世界は知らないままだ。
巫女の交代は、いつだって突然だ。
人々がそれを知るのは、巫女が現れてから。
夜勤明けの移動は、やっぱりきつい。
久しぶりの転移ということもあり、眠気と脱力感が一気に押し寄せてくる。
――さすがに、久々の登場で寝落ちはまずいよね。
霧が晴れていく。
魔法陣の前に立つ人影が見えた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
向こうも、私を見て驚いたようだった。
……なんで、よりによって彼なの。
胸の奥に、忘れたはずの感覚が、ひどく自然に蘇る。
3年前、ここから離れるときに、きちんと置いてきたはずなのに。
動揺した瞬間、張りつめていた気力が一気に切れる。
体が崩れ落ち――落ちるはずだった。
倒れる前に、温かい体温が私を支える。
「ありがと……」
顔を上げた瞬間、視線がぶつかる。
近い。近すぎる。
3年ぶりの再会で、この距離は心臓に悪い。
触れられているだけで、呼吸の仕方が分からなくなる。
「あの、もう……だいじょ――」
言い切る前に、彼の声が重なった。
「なぜ、サクラ様が……?」
――だよね。
やっぱり、何も変わっていない。
そう思ったところで、意識は闇に沈んでいった。
――――――――――
かなり長い時間眠っていたらしく、目を覚ました瞬間、自分がどこにいるのか分からなかった。
豪華なベッドに身を起こし、ぼんやりとした意識の中で、少しずつ記憶が戻ってくる。
ここは――あの世界だ。
部屋を出ようと、廊下へ続く扉に手をかける。
開けた、その先に。
――予想していた人物が立っていた。
私が目を覚ました気配を察したのだろう。
間に合うように来た、という距離だった。
「……お久しぶりです」
クロト・ヴァルハルト。
特別師団副師団長兼、巫女警護責任者。27歳。
銀髪に碧眼。
整いすぎている顔立ちなのに、不思議と人の温度があるのは、日焼けした肌のせいかもしれない。
このドキドキも、3年ぶりだ。
――恋人ぐらいは、できてるよね。
まあ、高嶺の花に相手がいようが、私の立ち位置は変わらないけど。
「久しぶりです。サクラ様、夜勤明けでしたか」
「はい……ごめんなさい、眠りこけちゃって」
「いえ。こちらの都合でお越しいただいているのですから。それより、もう疲れは取れましたか」
「はい。大丈夫です。皆さん、お待ちなんですよね?」
彼は、少しだけ申し訳なさそうに頷いた。
「では、案内をお願いします」
そう告げると、クロトさんは丁寧に一礼して歩き出す。
その背を追いながら、私は問いかけた。
「皆さん、お元気ですか?」
「はい。変わりありません。それに……髪を、かなり切られたのですね」
「あぁ……もう呼ばれることはないと思ってましたから」
この世界では、女性は髪が長いのが普通だ。
戻ってくると分かっていたら、ここまで短くはしなかった。
……どうせ、私を女性として見る人なんていないんだけど。
それでも。
意中の人には、せめて髪くらいは。
そんな気持ちを、どこかで捨てきれずにいる。
――――――――――
■結界崩壊と再召喚の理由
皆が集まっている結界へ案内され、挨拶もそこそこに、私はその場で立ち尽くしていた。
ひび割れた光の糸が、目の前で不規則に軋んでいる。編み目はほどけ、歪みは波のように揺れていた。
結界が――目に見えて、弱っている。
「……これは?」
言葉より先に、視線がリエット様へ向かう。
ゼフィーリア最高位の巫女。26歳。
丁寧で柔らかな所作の奥に、疲労と責任の重みが沈んでいた。
「凛は……私より、能力が上のはずです」
事実を口にしただけのはずなのに、胸の奥がひやりとした。
リエット様は小さく息を吐き、わずかに目を伏せる。
「そうですね。ただ――リン様は、莫大な力を、まだうまく使えていないようなのです」
「……そんなこと、凛は私には言っていませんでしたが?」
「えぇ。真実は……リン様には、お伝えしていませんでした」
その瞬間、すべてが腑に落ちた。
この結界の損傷具合。
ここまで崩れているのに、凛ちゃんが異変にすら気づいていないという事実。
――力が足りないわけじゃない。
使い方が、まったく追いついていないのだ。
なぜ私が、再び召喚されたのか。
ようやく理解できた気がした。
力は弱い。
けれど私は、10年間、この結界の調整に携わってきた。
これしかなかったと、そう判断されたのだろう。
私は内心、深いため息をついた。
――――――――――
■魔の波長の溢出
その直後、西南方面の結界から、魔の波長が溢れ始めたという報告が入った。
最初に現れたのは、小型の魔物。
だが、間を置かず、魔力の濁流に押し出されるように中型、そして大型の魔物が連続して出現しているという。
すでに特別師団と、第3・第5騎士団は――クロトさんを除いて――各地に固定された転移魔法陣を用い、現地へ向かっていた。討伐と同時に、可能な限りの浄化を行い、被害の拡大を防ぐ布陣だ。
転移魔法陣は、どこにでも描けるものではない。
古くから固定された“地点”から“地点”へ移動するしかなく、その数も限られている。
「……これは……」
予想以上に傷んだ結界を前に、思わず言葉を失う。
視線の先で、リエット様が深刻な表情のまま頷いた。
「魔物の討伐と、ある程度の浄化が終わらなければ、結界の完全修復は不可能です」
そう言ってから、リエット様はクロトさんへと視線を移す。
「……あなたがいなければ、この状況は厳しいでしょう」
クロトさんは軽く会釈を返したあと、一瞬だけこちらを見た。
「サクラ様。どうか――絶対に、無理はしないでください」
それは命令ではなく、釘を刺すような言葉だった。
次の瞬間、彼の足元に展開された転移魔法陣が、ほかの騎士たちのものとは明らかに違う密度で輝く。
光が収まったとき、そこに彼の気配は、もうなかった。
――――――――――
■戦場の気配(クロト視点)
西南方面、結界の外。
魔力が、異様な密度で膨れ上がっている。
大型魔物、複数。
小型と中型は、第3・第5騎士団が迎撃中だ。
それぞれの師団長が前線に立ち、隊列を保ったまま押し留めている。判断も指示も、問題はない。
――問題は、大型だ。
特別師団が当たっているが、前に出きれずにいる。
魔力の濁りが、異様に濃い。
理由は、すぐに分かった。
――1体だけ、核の質が違う。
周囲の大型魔物の動きが、その個体に引きずられている。
戦場全体の魔力の流れが、歪められていた。
特別師団長は、特別師団の残り半分の部隊とともに城で警備に当たっている。現地指揮は、途中までヴァルドが担っていた。
通信がつながる。
「特別師団、無理に押すな。間合いを保て」
短く告げた直後、地面を割る衝撃が走った。
結界が、わずかに軋む。
「……あれか」
最も魔力の強い個体へ、視線を定める。
「ヴァルド。あいつは俺が引き受ける。ほかを頼む」
言い終わるより早く、ヴァルドは反応し、別の個体へと標的を移した。
魔力の圧が、肌を刺す。
並の騎士なら、立っているだけで削られる領域だ。
だが――計測できる。
魔物がこちらを認識した瞬間、踏み込む。
「……遅い」
次の瞬間には、視界から消えていた。
懐へ入り、刃を走らせる。
狙うのは外殻ではない。
この戦場を歪めている、核だ。
断ち切った瞬間、魔力の流れが途切れた。
爆ぜる反動。
そして、わずかな空白。
最強個体が崩れ落ちると同時に、空気が変わる。
「今だ」
声を張る。
「あとは、各個撃破しろ」
間髪入れず、次の指示を飛ばす。
「浄化担当、前へ。討伐と同時進行だ。滞留させるな」
各師団長が、それぞれに指示を飛ばす。
歪んでいた魔力の流れが、急速に整っていった。
――――――――――
■結界を「縫う」
――その頃、私は結界の中心部で修復に取りかかっていた。
魔物の出現に伴い、結界の損傷は刻一刻と変化している。
私にできるのは、結界を「縫う」ことだけだ。
いつも通りのやり方で、いつも通りに。
破られた部分を見極め、歪められた編み目を、一つずつ、呼吸と同調させながら結び直していく。
魔力は少ない。
だから、大きな損傷であっても、一度に引き出せる量はわずかだ。無理に流せば、私自身の魔力があっという間に枯渇する。
結界越しに、戦地の気配が伝わってくる。
爆音と振動。濁った魔力のうねり。
クロトさんたちが、戦っている。
――私が失敗したら、この世界は崩壊へ向かう。
その事実だけで、かろうじて立っていられた。
汗が額を伝い落ちる。
視界の端から、ゆっくりと白んでいく。
それでも、手は止めない。
「……ここ、は……」
どうしても繋がらない亀裂があった。
魔力を通そうとすると、弾かれる。
一瞬、迷いが生じる。
そのとき――戦地での浄化が急速に進んだことが、結界越しにも分かった。
濁りが薄れる。
圧が抜ける。
――いける。
最後の亀裂を、慎重に塞ぐ。
結界が、かすかに応えた。
とても薄い。
それでも確かに、修復は完了している。
胸をなで下ろし、そっと息を吐いた。
あとは、リエット様が二重の強化を施してくれるはずだ。
これで、数週間は持つ。
――今の私にできるのは、ここまでだった。
――――――――――
■帰還
結界は、かろうじて――だが確かに、再び世界を隔てる役割を取り戻していた。
私は、リエット様が結界にさらなる強化魔法を施す様子を、ぼんやりと眺めていた。久しぶりに力を使ったせいか、体がだるい。意識の奥に、眠気が滲んでいる。
「……間に合ったのかな?」
誰に言うでもなく、小さく呟く。
その背後に、温度を伴った気配が立った。
振り向くと、クロトさんがいた。
おそらく、転移魔法陣で戻ってきたのだろう。
私の、本当に小さな声が聞こえていたのだろうか。
「はい。――十分すぎるほどに」
その言葉を聞いた瞬間、私はようやく、全身の力を抜くことができた。
――――――――――
■要請
「今までとは逆に――事態が落ち着くまで、こちらの世界を主に来ていただくことはできないでしょうか」
リエット様の言葉に、足元がわずかに揺らいだ。
――やっぱり。
嫌な予感は、していた。
この結界の壊れ具合だ。修復には、私の力でも時間がかかる。
凛ちゃんの能力が完全に開花するまで、週1の往復では足りない。
下手をすれば、このままでは10年単位になる。
けれど――
私が2年ほど、こちらの世界を主に滞在すれば、ある程度の状態までは戻せる。
視線が、一斉に私へ集まる。
国王レオンハルト様。
温厚な表情のまま、何かを決めている目をしていた。
王妃セレスティア様は、私の呼吸が浅くなったことに気づいたのか、ほんのわずか眉を寄せている。
王子アレクシス様は、まっすぐこちらを見つめたまま、唇を噛んでいた。
宰相マティアスさんは、何も表情を変えない。
ただ――こちらを見ている。
軍務卿ローデリヒさんは、何かを考えているようだった。
戦況か、それとも別の何かかは、分からない。
神殿長エルヴィーラさんは、穏やかなまま、何も言わない。
騎士側では――
特別師団長ヴァルターさんが、まっすぐに私を見ている。
その視線は、逸らさせてくれなかった。
第三騎士団長カイルさんは、私の手元を見ている。
震えているのに、気づいているのだろう。
第五騎士団長エドガーさんは、こちらを見ていた。
何を考えているのかは、分からない。
逃げ場は、どこにもなかった。
「……考える時間をください」
声は、思ったよりも落ち着いていた。
「一度、自宅に帰ってもいいですか。
私だけで決められる問題ではありませんから」
「えぇ、もちろんです」
リエット様は、申し訳なさそうに頭を下げる。
「サクラ様には、いつもご無理ばかりをさせてしまって……
本当に、申し訳なく思っています」
その「申し訳ない」は、きっと本心だ。
けれど――
謝られたところで、結界の崩壊は待ってくれない。
――――――――――
■二人きり
その後、私の疲労に気づいたクロトさんが、部屋まで護衛してくれた。
気づけば、二人きりになっていた。
「……大丈夫ですか」
気遣う声は、いつもと変わらない。
「えぇ。さすがに……すぐには返事ができなくて」
正直な気持ちをこぼすと、彼は小さく頷いた。
「サクラ様が、どのような結論を出されても――
私の立場は変わりません。
ですから、ご自分のことを、最優先になさってください」
その言葉は、きっと本心だ。
騎士としての、誠実な答え。
――でも。
だからこそ、胸の奥に、ちくりとしたものが残った。
私は、少しだけ意地悪を言いたくなった。
「クロトさんは、貴族階級の方なんですよね」
「……えぇ」
突然話題を変えたことに、彼はわずかに戸惑ったようだった。
「ご実家には、お手伝いさんや執事さんもいるんでしょう?」
「……実家には、いますが」
「私は、元の世界では平民でした」
言葉を選ぶように、続ける。
「でも、この世界では巫女という立場のおかげで、
本来なら関わることのない高貴な方々に守られて……
すごく、大切にされています」
彼の表情が、ほんの少しだけ硬くなる。
こういう言い方を、彼が好まないことも分かっている。
「私、この世界に来る前は、本当に地味に生きてきたから……
少しだけ、憧れていたんです。
“特別”っていう立場に」
一度、言葉を切り、息を吸う。
「でも、違いました。
特別ということは……自由がない、ということだった」
これは、ただの八つ当たりだ。
分かっている。
「それでも……この世界にも、今まで出会った皆さんにも、愛着はあります」
最後は、いつものように笑ってみせる。
「できる限り、力にはなりたいなって、思っています」
クロトさんは、何か言いかけて――
結局、言葉を飲み込み、わずかに視線を落とした。
きっと、投げかけるべき言葉が、見つからなかったのだろう。
――やめよう。
意地悪な言葉の代償は、いつも巡り巡って、自分に返ってくる。
「そんなに、真剣に考えないでください」
私は、少しだけ軽い調子を装った。
「少しくらい愚痴を言ったって、罰は当たらないですよね」
そう言って笑った、その直後だった。
ふっと、視界が揺れる。
床が、一瞬だけ遠くなった。
次の瞬間、クロトさんの指先が、私の手首を掴んでいた。
引き寄せられるほどでもなく、支え込むほどでもない。
ただ、倒れない位置で、ぴたりと止まる。
「……無理をしないでください」
声が、わずかに低い。
私は思わず、瞬きをした。
それから、少しだけ視線を逸らす。
「……そればっかりですね」
冗談めいたつもりだった。
「職務ですから」
言い切った直後、彼は一瞬だけ息を止めた。
まるで、自分で自分の言葉に驚いたみたいに。
すぐに、いつもの表情に戻る。
「……失礼しました。
部屋まで、送ります」
手首は、もう離れていた。
なのに、そこだけが、妙に熱かった。
――――――――――
■眠り
部屋の前まで来たところで、足取りが少し怪しくなった。
「……少し、休みますね」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
クロトさんは何も言わず、扉を開けてくれる。
「おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
短い挨拶を交わし、扉がそっと閉まるのを見届けてから、私はそのままベッドへと身を倒した。
その瞬間、意識がゆっくりと沈んでいく。
今は、何も考えずに眠りたい。
そう思ったところで、私はそのまま、深い眠りに落ちた。
あれは夢だったのだと、思えるようになったのに。
――今さら、またゼフィーリアに行くことになるなんて。
正直、もうこんな中途半端なことはしたくなかった。
二つの世界を行き来していた10年間、私はどちらの世界にも言い訳をしながら生きていたと思う。
いざとなったら、どちらにも戻れる。そんな逃げ道を常に残して。
あれから3年。
30歳になり、看護師の仕事だけは、なんとか「まともに」できるようになった。
それ以外は――友達もいないし、趣味も特にない。仕事以外で人と関わるのは家族だけだ。
寂しい人生を、満喫中。
それでも、あの頃の私よりは、ずっと地に足がついていると思っている。
「はぁ……」
鏡の前で、思わずため息がこぼれる。
「それにしても不思議よね。普通、一度選ばれた人間が、もう一度選ばれることなんてないのに」
呑気に首をかしげるおばさん(凛の母親、桜の母親の妹)の声に、私は苦笑した。
「桜ちゃん、ごめんね」
本当に申し訳なさそうに言うのは、凛ちゃんだ。
「いいの、いいの。凛ちゃんまだ中学生なんだし、行き来は大変だったでしょ」
「桜ちゃんも学生の頃は大変だったもんね」
おばさんが、私に申し訳なさそうにしつつも、凛ちゃんにフォローを入れる。
その瞬間、鏡が淡く光り始めた。
表面に、幾何学的な魔法陣が浮かび上がる。
「じゃあ、また3日後ね」
そう言って、私は鏡の中へと足を踏み入れた。
――――――――――
ため息をついた理由は、行き来そのものへの憂鬱だけじゃない。
それ以上に――あちらの世界の人たちを、がっかりさせてしまうことだった。
私の巫女としての能力は、叔母さんや凛ちゃん、歴代のご先祖様と比べても最下位だ。
私がなんとか巫女を務められていたのは、騎士たちの能力が過去最高水準だったからにすぎない。
しかも、凛ちゃんは、私なんかとは比べものにならない力を持っている。
私と入れ替わっていることすら、向こうの世界は知らないままだ。
巫女の交代は、いつだって突然だ。
人々がそれを知るのは、巫女が現れてから。
夜勤明けの移動は、やっぱりきつい。
久しぶりの転移ということもあり、眠気と脱力感が一気に押し寄せてくる。
――さすがに、久々の登場で寝落ちはまずいよね。
霧が晴れていく。
魔法陣の前に立つ人影が見えた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
向こうも、私を見て驚いたようだった。
……なんで、よりによって彼なの。
胸の奥に、忘れたはずの感覚が、ひどく自然に蘇る。
3年前、ここから離れるときに、きちんと置いてきたはずなのに。
動揺した瞬間、張りつめていた気力が一気に切れる。
体が崩れ落ち――落ちるはずだった。
倒れる前に、温かい体温が私を支える。
「ありがと……」
顔を上げた瞬間、視線がぶつかる。
近い。近すぎる。
3年ぶりの再会で、この距離は心臓に悪い。
触れられているだけで、呼吸の仕方が分からなくなる。
「あの、もう……だいじょ――」
言い切る前に、彼の声が重なった。
「なぜ、サクラ様が……?」
――だよね。
やっぱり、何も変わっていない。
そう思ったところで、意識は闇に沈んでいった。
――――――――――
かなり長い時間眠っていたらしく、目を覚ました瞬間、自分がどこにいるのか分からなかった。
豪華なベッドに身を起こし、ぼんやりとした意識の中で、少しずつ記憶が戻ってくる。
ここは――あの世界だ。
部屋を出ようと、廊下へ続く扉に手をかける。
開けた、その先に。
――予想していた人物が立っていた。
私が目を覚ました気配を察したのだろう。
間に合うように来た、という距離だった。
「……お久しぶりです」
クロト・ヴァルハルト。
特別師団副師団長兼、巫女警護責任者。27歳。
銀髪に碧眼。
整いすぎている顔立ちなのに、不思議と人の温度があるのは、日焼けした肌のせいかもしれない。
このドキドキも、3年ぶりだ。
――恋人ぐらいは、できてるよね。
まあ、高嶺の花に相手がいようが、私の立ち位置は変わらないけど。
「久しぶりです。サクラ様、夜勤明けでしたか」
「はい……ごめんなさい、眠りこけちゃって」
「いえ。こちらの都合でお越しいただいているのですから。それより、もう疲れは取れましたか」
「はい。大丈夫です。皆さん、お待ちなんですよね?」
彼は、少しだけ申し訳なさそうに頷いた。
「では、案内をお願いします」
そう告げると、クロトさんは丁寧に一礼して歩き出す。
その背を追いながら、私は問いかけた。
「皆さん、お元気ですか?」
「はい。変わりありません。それに……髪を、かなり切られたのですね」
「あぁ……もう呼ばれることはないと思ってましたから」
この世界では、女性は髪が長いのが普通だ。
戻ってくると分かっていたら、ここまで短くはしなかった。
……どうせ、私を女性として見る人なんていないんだけど。
それでも。
意中の人には、せめて髪くらいは。
そんな気持ちを、どこかで捨てきれずにいる。
――――――――――
■結界崩壊と再召喚の理由
皆が集まっている結界へ案内され、挨拶もそこそこに、私はその場で立ち尽くしていた。
ひび割れた光の糸が、目の前で不規則に軋んでいる。編み目はほどけ、歪みは波のように揺れていた。
結界が――目に見えて、弱っている。
「……これは?」
言葉より先に、視線がリエット様へ向かう。
ゼフィーリア最高位の巫女。26歳。
丁寧で柔らかな所作の奥に、疲労と責任の重みが沈んでいた。
「凛は……私より、能力が上のはずです」
事実を口にしただけのはずなのに、胸の奥がひやりとした。
リエット様は小さく息を吐き、わずかに目を伏せる。
「そうですね。ただ――リン様は、莫大な力を、まだうまく使えていないようなのです」
「……そんなこと、凛は私には言っていませんでしたが?」
「えぇ。真実は……リン様には、お伝えしていませんでした」
その瞬間、すべてが腑に落ちた。
この結界の損傷具合。
ここまで崩れているのに、凛ちゃんが異変にすら気づいていないという事実。
――力が足りないわけじゃない。
使い方が、まったく追いついていないのだ。
なぜ私が、再び召喚されたのか。
ようやく理解できた気がした。
力は弱い。
けれど私は、10年間、この結界の調整に携わってきた。
これしかなかったと、そう判断されたのだろう。
私は内心、深いため息をついた。
――――――――――
■魔の波長の溢出
その直後、西南方面の結界から、魔の波長が溢れ始めたという報告が入った。
最初に現れたのは、小型の魔物。
だが、間を置かず、魔力の濁流に押し出されるように中型、そして大型の魔物が連続して出現しているという。
すでに特別師団と、第3・第5騎士団は――クロトさんを除いて――各地に固定された転移魔法陣を用い、現地へ向かっていた。討伐と同時に、可能な限りの浄化を行い、被害の拡大を防ぐ布陣だ。
転移魔法陣は、どこにでも描けるものではない。
古くから固定された“地点”から“地点”へ移動するしかなく、その数も限られている。
「……これは……」
予想以上に傷んだ結界を前に、思わず言葉を失う。
視線の先で、リエット様が深刻な表情のまま頷いた。
「魔物の討伐と、ある程度の浄化が終わらなければ、結界の完全修復は不可能です」
そう言ってから、リエット様はクロトさんへと視線を移す。
「……あなたがいなければ、この状況は厳しいでしょう」
クロトさんは軽く会釈を返したあと、一瞬だけこちらを見た。
「サクラ様。どうか――絶対に、無理はしないでください」
それは命令ではなく、釘を刺すような言葉だった。
次の瞬間、彼の足元に展開された転移魔法陣が、ほかの騎士たちのものとは明らかに違う密度で輝く。
光が収まったとき、そこに彼の気配は、もうなかった。
――――――――――
■戦場の気配(クロト視点)
西南方面、結界の外。
魔力が、異様な密度で膨れ上がっている。
大型魔物、複数。
小型と中型は、第3・第5騎士団が迎撃中だ。
それぞれの師団長が前線に立ち、隊列を保ったまま押し留めている。判断も指示も、問題はない。
――問題は、大型だ。
特別師団が当たっているが、前に出きれずにいる。
魔力の濁りが、異様に濃い。
理由は、すぐに分かった。
――1体だけ、核の質が違う。
周囲の大型魔物の動きが、その個体に引きずられている。
戦場全体の魔力の流れが、歪められていた。
特別師団長は、特別師団の残り半分の部隊とともに城で警備に当たっている。現地指揮は、途中までヴァルドが担っていた。
通信がつながる。
「特別師団、無理に押すな。間合いを保て」
短く告げた直後、地面を割る衝撃が走った。
結界が、わずかに軋む。
「……あれか」
最も魔力の強い個体へ、視線を定める。
「ヴァルド。あいつは俺が引き受ける。ほかを頼む」
言い終わるより早く、ヴァルドは反応し、別の個体へと標的を移した。
魔力の圧が、肌を刺す。
並の騎士なら、立っているだけで削られる領域だ。
だが――計測できる。
魔物がこちらを認識した瞬間、踏み込む。
「……遅い」
次の瞬間には、視界から消えていた。
懐へ入り、刃を走らせる。
狙うのは外殻ではない。
この戦場を歪めている、核だ。
断ち切った瞬間、魔力の流れが途切れた。
爆ぜる反動。
そして、わずかな空白。
最強個体が崩れ落ちると同時に、空気が変わる。
「今だ」
声を張る。
「あとは、各個撃破しろ」
間髪入れず、次の指示を飛ばす。
「浄化担当、前へ。討伐と同時進行だ。滞留させるな」
各師団長が、それぞれに指示を飛ばす。
歪んでいた魔力の流れが、急速に整っていった。
――――――――――
■結界を「縫う」
――その頃、私は結界の中心部で修復に取りかかっていた。
魔物の出現に伴い、結界の損傷は刻一刻と変化している。
私にできるのは、結界を「縫う」ことだけだ。
いつも通りのやり方で、いつも通りに。
破られた部分を見極め、歪められた編み目を、一つずつ、呼吸と同調させながら結び直していく。
魔力は少ない。
だから、大きな損傷であっても、一度に引き出せる量はわずかだ。無理に流せば、私自身の魔力があっという間に枯渇する。
結界越しに、戦地の気配が伝わってくる。
爆音と振動。濁った魔力のうねり。
クロトさんたちが、戦っている。
――私が失敗したら、この世界は崩壊へ向かう。
その事実だけで、かろうじて立っていられた。
汗が額を伝い落ちる。
視界の端から、ゆっくりと白んでいく。
それでも、手は止めない。
「……ここ、は……」
どうしても繋がらない亀裂があった。
魔力を通そうとすると、弾かれる。
一瞬、迷いが生じる。
そのとき――戦地での浄化が急速に進んだことが、結界越しにも分かった。
濁りが薄れる。
圧が抜ける。
――いける。
最後の亀裂を、慎重に塞ぐ。
結界が、かすかに応えた。
とても薄い。
それでも確かに、修復は完了している。
胸をなで下ろし、そっと息を吐いた。
あとは、リエット様が二重の強化を施してくれるはずだ。
これで、数週間は持つ。
――今の私にできるのは、ここまでだった。
――――――――――
■帰還
結界は、かろうじて――だが確かに、再び世界を隔てる役割を取り戻していた。
私は、リエット様が結界にさらなる強化魔法を施す様子を、ぼんやりと眺めていた。久しぶりに力を使ったせいか、体がだるい。意識の奥に、眠気が滲んでいる。
「……間に合ったのかな?」
誰に言うでもなく、小さく呟く。
その背後に、温度を伴った気配が立った。
振り向くと、クロトさんがいた。
おそらく、転移魔法陣で戻ってきたのだろう。
私の、本当に小さな声が聞こえていたのだろうか。
「はい。――十分すぎるほどに」
その言葉を聞いた瞬間、私はようやく、全身の力を抜くことができた。
――――――――――
■要請
「今までとは逆に――事態が落ち着くまで、こちらの世界を主に来ていただくことはできないでしょうか」
リエット様の言葉に、足元がわずかに揺らいだ。
――やっぱり。
嫌な予感は、していた。
この結界の壊れ具合だ。修復には、私の力でも時間がかかる。
凛ちゃんの能力が完全に開花するまで、週1の往復では足りない。
下手をすれば、このままでは10年単位になる。
けれど――
私が2年ほど、こちらの世界を主に滞在すれば、ある程度の状態までは戻せる。
視線が、一斉に私へ集まる。
国王レオンハルト様。
温厚な表情のまま、何かを決めている目をしていた。
王妃セレスティア様は、私の呼吸が浅くなったことに気づいたのか、ほんのわずか眉を寄せている。
王子アレクシス様は、まっすぐこちらを見つめたまま、唇を噛んでいた。
宰相マティアスさんは、何も表情を変えない。
ただ――こちらを見ている。
軍務卿ローデリヒさんは、何かを考えているようだった。
戦況か、それとも別の何かかは、分からない。
神殿長エルヴィーラさんは、穏やかなまま、何も言わない。
騎士側では――
特別師団長ヴァルターさんが、まっすぐに私を見ている。
その視線は、逸らさせてくれなかった。
第三騎士団長カイルさんは、私の手元を見ている。
震えているのに、気づいているのだろう。
第五騎士団長エドガーさんは、こちらを見ていた。
何を考えているのかは、分からない。
逃げ場は、どこにもなかった。
「……考える時間をください」
声は、思ったよりも落ち着いていた。
「一度、自宅に帰ってもいいですか。
私だけで決められる問題ではありませんから」
「えぇ、もちろんです」
リエット様は、申し訳なさそうに頭を下げる。
「サクラ様には、いつもご無理ばかりをさせてしまって……
本当に、申し訳なく思っています」
その「申し訳ない」は、きっと本心だ。
けれど――
謝られたところで、結界の崩壊は待ってくれない。
――――――――――
■二人きり
その後、私の疲労に気づいたクロトさんが、部屋まで護衛してくれた。
気づけば、二人きりになっていた。
「……大丈夫ですか」
気遣う声は、いつもと変わらない。
「えぇ。さすがに……すぐには返事ができなくて」
正直な気持ちをこぼすと、彼は小さく頷いた。
「サクラ様が、どのような結論を出されても――
私の立場は変わりません。
ですから、ご自分のことを、最優先になさってください」
その言葉は、きっと本心だ。
騎士としての、誠実な答え。
――でも。
だからこそ、胸の奥に、ちくりとしたものが残った。
私は、少しだけ意地悪を言いたくなった。
「クロトさんは、貴族階級の方なんですよね」
「……えぇ」
突然話題を変えたことに、彼はわずかに戸惑ったようだった。
「ご実家には、お手伝いさんや執事さんもいるんでしょう?」
「……実家には、いますが」
「私は、元の世界では平民でした」
言葉を選ぶように、続ける。
「でも、この世界では巫女という立場のおかげで、
本来なら関わることのない高貴な方々に守られて……
すごく、大切にされています」
彼の表情が、ほんの少しだけ硬くなる。
こういう言い方を、彼が好まないことも分かっている。
「私、この世界に来る前は、本当に地味に生きてきたから……
少しだけ、憧れていたんです。
“特別”っていう立場に」
一度、言葉を切り、息を吸う。
「でも、違いました。
特別ということは……自由がない、ということだった」
これは、ただの八つ当たりだ。
分かっている。
「それでも……この世界にも、今まで出会った皆さんにも、愛着はあります」
最後は、いつものように笑ってみせる。
「できる限り、力にはなりたいなって、思っています」
クロトさんは、何か言いかけて――
結局、言葉を飲み込み、わずかに視線を落とした。
きっと、投げかけるべき言葉が、見つからなかったのだろう。
――やめよう。
意地悪な言葉の代償は、いつも巡り巡って、自分に返ってくる。
「そんなに、真剣に考えないでください」
私は、少しだけ軽い調子を装った。
「少しくらい愚痴を言ったって、罰は当たらないですよね」
そう言って笑った、その直後だった。
ふっと、視界が揺れる。
床が、一瞬だけ遠くなった。
次の瞬間、クロトさんの指先が、私の手首を掴んでいた。
引き寄せられるほどでもなく、支え込むほどでもない。
ただ、倒れない位置で、ぴたりと止まる。
「……無理をしないでください」
声が、わずかに低い。
私は思わず、瞬きをした。
それから、少しだけ視線を逸らす。
「……そればっかりですね」
冗談めいたつもりだった。
「職務ですから」
言い切った直後、彼は一瞬だけ息を止めた。
まるで、自分で自分の言葉に驚いたみたいに。
すぐに、いつもの表情に戻る。
「……失礼しました。
部屋まで、送ります」
手首は、もう離れていた。
なのに、そこだけが、妙に熱かった。
――――――――――
■眠り
部屋の前まで来たところで、足取りが少し怪しくなった。
「……少し、休みますね」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
クロトさんは何も言わず、扉を開けてくれる。
「おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
短い挨拶を交わし、扉がそっと閉まるのを見届けてから、私はそのままベッドへと身を倒した。
その瞬間、意識がゆっくりと沈んでいく。
今は、何も考えずに眠りたい。
そう思ったところで、私はそのまま、深い眠りに落ちた。