『星砂の降る船で』 桜井ジン
第八話
えびやん、鬼になる

 えびやんは、しばらく、舵を見ていた。手をかけるまでに、二つ呼吸をした。そっと、ひとつだけ動かす。ギィ。その音が、止まった世界をひっかいた。
 星砂がヒラヒラと、宝船のまわりを舞っている。けれど今日は、そのヒラヒラが落ち着かない。風がゴウゴウとうなり、空がゆっくり黒くなる。帆が、バン、と膨らんだ。欄干がミシリと鳴る。波がドン、と船べりを打つ。
 えびやんは、舵の前に立っていた。手には、古い木の面。指先が、ぎゅっと白くなる。べにたんが、びわを抱えて走ってくる。足音がバシャバシャ、濡れた板に広がる。
「ねえ、これ、ただの風じゃないわ。船がバラバラになっちゃう!」
 えびやんは答えない。ゆっくりと、面を顔に当てる。指が、ほんの少しだけ震えた。カチリ。「ふにゃり」とした笑いが、すっと消えた。そこに現れたのは、厳しい目をした鬼の面。目の穴の奥が、じっと暗い。雨粒がポチポチと面を打つ。
「みんな、持ち場へ」
 声は低く、まっすぐだった。だいちゃんは、こづちをぎゅっと握る。グゥ、とお腹が鳴るが、ふたたび握り直す。びしゃんは、鎧をガチャガチャ鳴らし、帆柱につかまる。おじいは、長い髭をおさえながら、トン、と足を踏ん張る。ロクさんの長い頭が、ユラユラ揺れる。ほていは、甲板にゴロンと転がったまま、お腹をポンとたたく。
「まあまあ、一休み……」
 ゴウッ、と風が声をさらう。えびやんは、舵をギリギリと回す。木がミシミシ鳴る。船がグラリと傾く。
「止まるな」
 短い声。波がドン、と船底を打つ。星砂は雨に混じり、ベチャリと板に広がる。ヒラヒラは、もう見えない。べにたんが、濡れた手で綱を引く。ツルリと滑る。それでも、もう一度つかむ。
「ねえ、どうしちゃったの? いつものえびやんじゃない!」
 返事はない。舵がギリ、と鳴るだけ。えびやんは、まっすぐ前を見る。
「今は、進む」
 その一言だけが、嵐の中に残る。だいちゃんは、こづちの角で自分の膝をトントンと打つ。びしゃんは、波に向かって体を向ける。ほていは、濡れたお腹をポン、ともう一度たたく。
「流されても、いいときもあるのです」
 えびやんの面が、わずかに揺れる。けれど、舵を握る手はゆるまない。
「今は、流されない」
 帆がビリビリ鳴る。欄干が軋む。木箱がガラガラ転がる。中から、小さな鯛の置き物がコロンと出た。えびやんは、一瞬、それを見る。ヒラヒラ、と一粒の星砂が、鯛の上に落ちる。えびやんは、鯛を拾わない。ただ、前を見る。
「進め」
 船は、黒いうねりの中へ、グイッと入っていく。坂を登るみたいに、ゆっくり、けれど止まらずに。雨がザーザー降り続く。雷がゴロゴロ遠くで鳴る。誰も笑わない。誰も泣かない。ただ、それぞれの足が、板をギュッとつかんでいる。
 ロクさんの頭が、ユラユラと小さく揺れる。
「動くって、大変じゃのう」
 おじいは、何も言わない。ただ、えびやんの後ろ姿を、じっと見ている。鬼の面は、雨に濡れながら、前だけを向いている。面の内側は、見えない。舵を握る手だけが、白く力を込めている。
 嵐の向こうに、何があるのか。誰も、まだ知らない。それでも。宝船は、ギシギシと音を立てながら、ヒラヒラを失った空の下を、まっすぐ進んでいくのでした。
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