追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路

第13話 貴族ではない私

 最初の仕事は、鍋の洗い方だった。
 鍋なんて、触ったこともなかった。
 料理は何度か見学したことがあるけれど、炊事場で手を動かしたことは一度もない。
 それが、私の当たり前だった。

 ――でも、今は違う。

「セラ。鍋はこうやって洗ってちゃんとこの棚に戻して。火の通し方にも気をつけないと、次の人が困るわよ?」

 明るくもきびきびとした声が、私の背中にかけられる。
 声の主は、サーシャという名の使用人の少女だった。
 栗色の髪を三つ編みにして、袖をまくり上げ、手際よく作業をこなす彼女は、この炊事場のリーダー的存在らしい。
 年齢は私とそれほど変わらないが物腰も言葉も堂々としていて、まるで年上のように見える。

「あ、はい、すみません」

 私は少しうつむきながら返事をする。
 ただ叱られているわけではないとわかっていても、できない自分自身が情けなかった。
 そんな私に対し、サーシャはちらりと私の手元をのぞき込む。

「うん、でも洗い方は丁寧ね。泡立てすぎると水の無駄遣いになるからそこだけ気をつけて」
「……あ、はい。ありがとうございます」

 自分が教えを受けることに抵抗があるわけじゃない。
 ただ、【私が何もできない】という現実が想像以上に胸に突き刺さった。
 嘗ては貴族として、指示を出す立場にいた。でも今は、教えられる側であり、間違えば舌打ちもされる使用人。
 この変化に、未だ心が完全には馴染めない。

(……それで、いいのよね)

 そう自分に言い聞かせながら、私は皿を一枚一枚、丁寧に洗い続けた。
 すると、ふと隣で皿を拭いていたサーシャが、ぽつりと呟いた。

「ねえ、セラって、元はどこにいたの?」
「……え?」

 手が止まった。だが、すぐに平静を装って返す。

「……旅の途中です。事情があって……少し、追い出されてしまって」
「ふーん……そういう感じか」

 サーシャは特に詮索することなく、軽く頷いた。

「まあ、誰だって過去はあるもんね。ここに来る人は、みんな何かしら抱えてるし」

 それは、重くもなく、軽くもなく、ただ普通に、当たり前の事のように聞こえた。
 私は思わず、サーシャの横顔を見つめていた。
 彼女はさらりとそう言って、続けて笑う。

「セラってさ、不器用だけど真面目だし、手つきも丁寧。私、結構好きだよ。こういう子」
「え……?」
「何、そんな顔してんの。褒めてるのに」

 不思議ね、と呟くサーシャに対し、私は心の奥が、少しだけぽっと温かくなった。
 ……こんなふうに、誰かに言われるのは、いつぶりだろう。
 肩書きでも、家柄でもなく、【(セレスティア)】を見てくれた人なんて居ただろうか?

「……ありがとう、サーシャさん」
「やだなぁ、サーシャで良いよ。私もセラって呼んでいるんだから」
「え、じゃ、じゃあ、サーシャ」
「うん、セラ!」

 フフっとお互い笑った後、思い出したかのようにサーシャが大鍋を出す。

「会話はここまで!はい、次はこの大鍋お願い!」
「……はい!」

 声が、少しだけ明るくなった気がした。
 皿の泡が、水と一緒に流れていく。
 貴族ではない私。
 名も捨てた私。
 けれど、ここにはまだ、学ぶ余地がある。
 信頼を積み重ねる場所がある。
 そう思えることが、ほんの少しだけ、嬉しかった。

   ▽ ▽ ▽
 
 その夜、少し遅れてカイ様――将軍様が帰ってきた。
 私はそっと陰に隠れて様子をうかがう。
 彼は使用人にも敬語を強いず、だが粗暴でもない。
 重たい鎧を脱ぎながら、肩を回し、手早く食事を済ませてから静かに仕事場へと戻っていった。
 兵士たちは彼の事を【将軍】と呼び、絶大な信頼を寄せている。
 彼が口を開けば、兵士たちは自然と動く。彼が一睨みすれば、誰もが黙る。

(……あれが、本当の【力】なんだろうか?)

 王城で、どれだけ政治の場に出たとしても、王太子の許しがなければ何も動かせなかった私とは全く違う。
 力とは、肩書きではなく人を動かす信頼なのだと――初めて知った。

「――おい、セラ」

 背後から声をかけられ、私はびくりとした。

「は、はいっ!」

 緊張して振り向くと、将軍様が眉をひそめてこちらを見ていた。
 何か粗相でもしただろうか――そう思い、思わず頭を下げる。

「そこまで緊張する必要はねぇよ。皿、ちゃんと洗ってたじゃねぇか」

 私は思わず、顔を上げた。

「……見て、いたのですか?」
「当然だ。名前も正体もわからん女を屋敷に置いているんだから、見張っていて、当然だろう?」
「……そうですね。怪しまれて当然です」

 思わずそう答えてから、はっとした。

 当然――この国に追放される時に、何度も投げつけられた言葉だ。あの時、誰も私を信じなかった。それが当然だと。
 それでも、将軍様の目は責めるような色ではなかった。

「……仕事の覚えは悪くなさそうだ。少しは安心した」
「ありがとうございます」

 それだけ言って、彼は足早に廊下を去っていった。
 その背中を、私はしばらく見送っていた。

(せっかく拾ってもらったんだから……将軍様の隣に立つのは難しいけど、何か役に立てるような事がしたいな)

 新参者が言う言葉ではないけれど、だからこそここで何かを見つけたいと思った。
 貴族でも、令嬢でもない、ただの私として。
 寝台に体を沈め、手のひらを見つめる。
 この手で何ができるのか、まだわからない。
 でも、明日もまた、動かしてみよう。学んでみよう。働いてみよう。
 もう、何も持たない私だけれど。
 それでも、生きる価値を探してみたい。
 そして、将軍様に恩返しが出来るようになれればいいなと考えながら、私は静かに目を閉じたのだった。
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