追放された侯爵令嬢の幸せと、彼女を捨てた者たちの末路

第32話 国政の重み【王太子視点】

 机の上が、紙で崩れそうだ。
 崩れているのは書類の山だけではない。私の神経も、だ。
 居室の窓は閉め切っているのに、なぜか冷えた風が足元を舐める。暖炉は赤く燃え、香炉は甘い匂いを漂わせている。だが、温かさは皮膚の上を滑るだけで、胸の奥には届かない。
 ペン先を紙に押しつけても、文字が頭に入ってこない。

「殿下……こちら、税収の報告です。南部の麦税が想定より二割落ちています」
「……置いておけ」

 声が刺々しい。自分でもわかる。
 だが、言葉を丸くする余裕などどこにもない。
 机の端には、未決裁の書状が積み上がり、その横には貴族院からの抗議文、各領からの嘆願、騎士団の補給要請、港湾の関税見直し案、疫病に備えた薬草の流通許可。
 どれも「急を要す」と朱で書かれている。
 急、急、急――王都はいつから、こんなに息切れする国になった?
 背後で部下が咳をした。乾いた、長い咳だ。
 寝ていない、食っていない、そして休めていない。
 それは部下だけじゃない。私も同じだ。

「……次」
「貴族院より、税制改革案の再提出要求です。『農民の負担軽減の代わりに上位貴族の免除を見直す案』——以前、セレスティア様が——」

 その名が出た瞬間、俺の指が止まった。

(……セレスティア)

 机の角を爪で擦る。無意識に。
 紙の白さが目に痛い。字が滲む気がする。
 部下は言い淀み、次の紙を差し出す手を引っ込めた。

「殿下……?」
「……言うな」

 短く言い捨てた。
 口の中に苦い味が広がる。認めたくない感覚が、喉元までせり上がってくる。
 セレスティアがいた頃は——こんなことにはならなかった。
 それが、事実だ。
 あいつはいつも先を読んでいた。
 貴族院が騒ぎ出す前に、反対派の顔ぶれを把握して根回しを済ませ、庶民が荒れる前に施策の説明文を用意して、騎士団の補給不足が表面化する前に備蓄の見直しを提案していた。
 私が【王太子】として格好をつけて座っている間に、あいつは泥を被って走り回っていた。

 ……当たり前のように。

 当たり前?
 違う。そんなもの、当たり前であるはずがない。
 私は今になって、それを思い知らされている。
 机に山積みの紙束は、私が何を失ったかを、ひとつひとつ指差して嘲笑っている。

「……なんだ、これは」

 自分の声が、やけに低く響いた。
 書類を掴んで投げ捨てたい衝動が喉を焼く。だが、投げれば混乱は増すだけだ。わかっている。わかっているのに、感情だけが先に走る。
 部屋の扉の向こうで、誰かが小声で話している。

 「貴族派がまた動いた」
 「王妃様のご機嫌を損ねるな」
 「殿下、最近ますます苛立って——」

 私は椅子の背に深く体重を預けた。
 心臓が、重い。
 セレスティアが追放されて、既に半年経過している。
 たった半年で、国がこんなふうに歪むなんて私は思っていなかった。
 いや——思っていなかったふりをしていただけだ。
 彼女はいわば、私の【盾】だった。
 私の代わりに矢を受け、私の代わりに泥を踏み、私の代わりに罵声を浴びた。
 私はそれを……鬱陶しいと感じたことさえある。
 正しさを振りかざすな。
 私の決定に口を挟むな。
 婚約者のくせに、私に甘えもしない。
 そんな風に——馬鹿げている。
 今なら自分がどれほど浅ましかったかわかる。
 だが、わかったところで、もう遅い。

「殿下、昼食を……」
「いらん」

 胃が鳴ったのは、空腹のせいじゃない。
 胸の奥が痙攣する。吐き気に近い。
 ふと、窓の外が目に入った。
 王都はいつも通り、綺麗に整っている。石畳は磨かれ、旗が揺れ、人々は忙しなく歩く——いつも通り。そのように見えるだけだ。
 噂は、耳に入っている。
 農村の不満が溜まっている。
 商人ギルドが税の不公平を訴えている。
 貴族院では派閥が裂け、王妃派と反王妃派の綱引きが激化している。
 私はその中心にいるはずなのに、まるで舵を失った船に縛り付けられている気分だ。

 ——セレスティアなら、どうした?その問いが浮かんだ瞬間、私は机を叩いた。

「……っ、くそ!」

 木が軋み、ペン立てが倒れ、インク壺が揺れた。
 部下が息を呑む気配がする。しかし私は荒い呼吸のまま、手を握りしめる。
 違う。違うんだ。
 あいつに頼らなくても私はやれるはずだ。
 王太子である私が、一人で国を治められないわけがない——そうでなければ、私は何なんだ。
 だが現実は、容赦なく私の鼻面を地面に擦りつける。

 私は、できていない。

 あいつがいたから回っていた歯車が、あいつがいなくなった途端に軋み、噛み合わなくなり、火花を散らしている。
 それが怖い。怖いから、私は別の言葉を探す。

 ——あいつが悪かった。
 ——あいつが国に仇なした。
 ——私は正しい決断をした。

 そう言えば楽になる。
 そう言い続ければ、心は何とか形を保てる。

 ――だが、保てない。

 セレスティアの顔が浮かぶ。跪いた背中。折れない背筋。
 私を見上げたあの目は怒りでも恨みでもなく、ただ——哀しみ。
 私はその目から逃げた。
 逃げたくせに、今になってあいつの不在に縋ろうとしている。惨めだ。最低だ。
 その最低な私を、さらに苛立たせる存在がいる。

 ——エリス。

 あの女は、いつも言った。

 「殿下は強すぎます」
 「殿下は正しさに縛られている」
 「心のままに選んでもいい」

 甘い声に柔らかな手。理解者のような視線。
 あの時の私は、それに酔った。セレスティアの正しさが刺さるほど、エリスの肯定は麻薬みたいに効いた。
 だが今、私の机に積もる紙束は、エリスでは片付けられない。
 慰めで税収は戻らない。微笑みで貴族院はまとまらない。

 ——当然だ。国は、甘やかしでは回らない。

 なのに私は国の重みを知りながら、心地よい毒を選んだ。

「……なぜ……」

 喉が震えた。
 誰にも聞かせるつもりはなかったのに、声になってしまう。

「なぜ……なぜあの時、あいつを庇わなかった……?」

 答えはわかっている。
 庇えば、私自身が傷つくからだ。
 王妃の機嫌を損ね、貴族派の反発を買い、王太子としての威信が揺らぐ——つまり私は、国のためではなく、自分のために動いた。
 それを認めた瞬間、胃の奥が冷えた。
 私は椅子から立ち上がり、窓辺へ歩く。
 指先でガラスをなぞる。冷たい。
 王都が遠い。民の声が遠い。現実が遠い――だが、今更ながら戻れない。戻れないんだ。
 セレスティアを追放したのは【私】だ。
 王太子として、国のためと称して。それを覆せば、私の決定が揺らぐ。王権が揺らぐ。国が揺らぐ——そうだろう?
 そう、言い聞かせる。言い聞かせて、胸の痛みを押し殺す。
 だが胸の痛みは、押し殺すほど増していく。
 結局、私は自分が可愛いだけだ。
 国を守る盾を失って困っているだけだ。
 あいつを失って寂しいわけでも、悔しいわけでもない——そう思いたいだけだ。

 その、はずなのに。

 窓の外の空が、灰色に見えてしまった。それと同時に冬の朝の冷たさが、なぜか思い出される。
 回廊を歩く足音。白い息。青白い大理石。
 あの日のセレスティアの横顔。あの時の私の冷たい声。
 思い出すだけで、胸が焼ける。

「……セレスティア」

 名を呼んだ。声は小さく、情けないほど弱かった。
 その瞬間、背後で部下が息を殺したのがわかった。
 聞かれた、聞かれてしまった。
 私は振り返らない。
 王太子である私は、弱さを見せてはいけない。そうやってまた、私は自分を縛る。
 机に戻り、紙束を一枚掴む。
 次の決裁。次の署名。次の命令。手が震える。怒りか、後悔か、焦りか、それとも全部か。

 ——私は、王太子だ。私がやらなければ国は沈む。

 その責任の重さを、いまさら噛み締める。

 だが同時に、心の底で、より醜い考えが芽を出す。

 ……もし、セレスティアが生きているなら。もし、どこかにいるなら。
 彼女を連れ戻せば——国はまた回るんじゃないか?
 もちろん、表向きは「再審理」だ。秩序のため、国のため、王家の慈悲。そう言えば、世間も貴族も納得する。
 あいつが嫌がろうと、戻せばいい。戻せば私は——楽になる。
 胸の奥で、何かがひどく軋んだ。自分の考えが醜いとわかっているのに、止まらない。
 私は、あいつを救いたいのか?
 それとも、あいつを利用したいのか?

 ……どちらも、だ。

 情けないほどに、私はまだ王太子でまだ男で、まだ自分勝手だ。
 書類の端に目を落とす。
 そこには、辺境から上がった治安報告が混じっていた。
 盗賊の動き。水路の破損。補給の遅延。
 そして——【辺境領主カイ・ヴァレンティア】の名。
 あの男――王都が恐れる、救国の将軍。
 私の指がその名の上で止まった。

(……何かが、動いている)

 理由はわからない。
 だが、嫌な予感だけが確かに胸に残った。
 私は紙を握り潰しかけて、ゆっくりと息を吐く。

 ——国政の重み?

 違う、これは私が自分で背負い損ねた罪の重みだ。
 だが、今さら「ごめんなさい」で済むはずがない。
 だから私は、また都合のいい言葉を探す。
 国のため。
 王家のため。
 秩序のため。

 そして——私自身のために。

 私は、決断しなければならない。
 次に動くのは、王都だ。次に壊れるのは、きっと——もっと大きな何かだ。
 その予感に胸が焼けたまま、私は再びペンを取った。
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